俺は、いわゆるストーカーってやつなんだと思う。
そんな風に冷静に自分を客観視出来るくせに、それでもやめられないでいる。
また今日もあいつを見ることが出来る。
そう思うだけで心が躍るのに、どこか冷えた自分もはっきりと自覚する。
それを振り切るように歩調を速め、今日もあいつの自宅へと向かう。
会う為じゃない。
覗き見る為……ただそれだけの為に。
――好きだった、あいつのことが。
あいつは俺のことを友達と言ってくれた。
太っていて、根暗で、取り得もなくて、面白くもない、こんな俺を。
でも、本当に”タダノトモダチ”。
俺の目から見るあいつは、いつも友達としてなんて映ってなかった。
なのにあいつにとって、俺はたくさんいる友人の中の一人。
クラスも一緒になったことはなかったし、部活や、話すグループも違っていた。
そんなあいつは、俺に。
同性の俺にどんなに淀んだ目で自分が見られているかなんて、気付きもしなかっただろう。
その証拠に、あいつは誰にでもそうするように俺にも笑いかけてくれた。
汚い自分を自覚して、こんなにも胸が苦しくなるのに。
それでも、俺はあいつの笑顔が大好きだった。
思えば、あいつと出会い、あいつばかりを想い続けた俺の高校時代は、人生の中で一番輝いていた。
俺が、人間が誰かをあんなに求める心があるなんて、知らなかった。
あいつはそれを教えてくれた。
勿論、数々の苦しみと一緒に。
でも、あいつとすれ違ったり、ちょっと挨拶を交わしたり。
それだけで馬鹿みたいに心が躍った。
幸せなんだって、実感出来た。
足りなかったとすれば、俺の勇気。
自分の気持ちの大きさを自覚する一方で、臆病な自分に気付く。
こんなに、こんなに好きなのに、なんで俺は自分から声の一つも掛けられない。
自分の気持ちが大きくなるほどに、又同じだけ、自分が嫌になる。
そうやって、すぐにあいつと一緒に居られる時間は終わる。
卒業式の日。
俺は、あいつと出逢ってから初めて、自分からあいつに声を掛けた。
「……った、高宮……くん」
「おー、市ノ瀬!」
下駄箱で、卒業証書を片手に振り返る高宮は、俺を認めるとにこやかに笑った。
……いつも、そうしてくれるように。
「ちょ、ちょっとさ、話があるんだけど……いいかな」
その笑顔を直視出来ずに、俯く。
「珍しいなぁ、そんなに積極的な市ノ瀬、見たことないぞ」
バシバシと背中を叩かれる。
ほんのそれだけなのに、下半身が反応しそうになり、自分を抑える。
「あの、さ……」
言おう、言わなきゃ。
感謝と一緒に伝えるんだ。
君のことが好きだったって。
お陰で色んなことがわかったんだよ、って。
「……市ノ瀬?どうしたー?」
動けよ、唇。
なんでこんな簡単なことが言えないんだよ。
動かない唇の代わりに、膝ががくがくと震え始めた。
汗で前髪が額に張り付く。
「おーい、高宮ー!一緒に写真撮ろうぜー」
遠くから、高宮の友人が手を振る。
困ったように強張った俺と遠くの友人に目配せする高宮。
「……あっ、行っていいよ。ぼ、僕のは大した用事じゃないから」
何を言ってるんだ、俺は。
衝いて出た言葉を自覚したときには、もう遅かった。
「そうなのか?じゃあ、悪いな」
小走りで駆け出す高宮。
あっ、と小さく声が出るけど、その先は何も続かず、そして高宮がそれに気付くこともなかった。
そんな別れ方をした後、俺はとことん自分が嫌いになった。
臆病者、根性なし。
”卒業おめでとう”、それさえ言えなかった。
そんな俺が高宮の連絡先を知る筈もなく、高宮の周りの友人とすら交遊はなかった。
そもそも高宮と会話の機会が得られたのだって、高宮の人見知りしない性格と、運が重なった僥倖に過ぎないのだ。
卒業式がそのまま、今生の別れっていうわけだ。
それであの醜態。
俺は自分の無様を笑った。
卒業後、なんとなく進学しただけの大学で、抜け殻のように毎日を送りながら、自分を呪い続けた。
呪う一方で、一向に消えることの無い高宮への想いもはっきりと自覚していた。
未練たらしい、そんな自分もまた嫌だった。
しかし、俺は運だけは良いのかもしれない。
……相手にとっては不幸に他ならないのだろうが。
「……嘘、だろ」
大学から帰る電車の中、もたれるように隅を陣取っていた時に高宮の姿を見かけたときは目を疑った。
高校時代もそうであったように、高宮はやはり複数の友人に囲まれながらそこに居た。
位置で言えばそう、ちょうど電車の戸と戸を挟んだ対角線。一座席分。
その時俺が反射的にとった行動は、迷うこともなく相手に気付かれないよう背を向けることだった。
――……俺は、なにやってるんだ。
あんなに焦がれた相手なのに。
もう届かないと思った相手なのに。
こんなに近くに居るのに。
どんな言葉で自分を奮い立たせようとしても、動作としては出来たのはまたしても……
ただただ情けなくその膝を震わすことのみ。
どれだけそうしていただろう。
俺は背中を向け、足を震わせながらも、五感をフル回転させて相手の存在を感じていた。
やがて、高宮の降車駅が訪れたようだった。
「んじゃ、また明日な!」
高宮が友人に別れの言葉を明るく告げる。
それに応える友人。
――また明日?
そいつらにはいくらでもあるかも知れない、”また”。
でも俺にはどうだ?
家も知らない、学校も知らない、連絡先も知らない……繋がりなんて何もない。
ここで高宮を見失えば、もう……今度は、今度こそ。
俺が思考している間にも電車は停車し、戸袋が開く。
手を振って降りる高宮。
「…………ッ!!」
高宮から一座席分離れた降車口から降りる俺。
これも、殆ど反射だった。
逡巡するのもつかの間、閉まるドアの音に正気に引き戻されるが、それでも俺は高宮の背中を叩くことすら出来ず……
しかし、諦めて立ち尽くすことも出来ず……
気付かれないよう、それでも見失わないよう。
まるで高校時代の俺と高宮の位置そのままに、高宮の後ろを張り付いて行くのだった。
自分の行為が異常だってことは……正直その時は思っていなかった。
正当化することさえも忘れて、ただ必死だった。
胸が張り裂けそうに痛い。
切ないのか、動転してるのか、高揚してるのか。
荒くなった呼吸で自分の存在が気取られないよう努める行為に必死だった。
そこに倫理観はなかった。
そして、高宮を……一度失ってしまった高宮を、もう一度失うわけにはいかなかった。
――がちゃ。
「――……!」
高宮のアパートの戸が開く音で現実に引き戻される。
俺はその戸が開く音を、高宮の死角になるよう隠れた位置から聞いていた。
古く、オープンな構造のアパートは”そうする”には最適で、この位置取りを掴むのにもそう苦労はしなかった。
……そう、そうやって高宮の今の住所を突き止めた俺は、今もただ何が出来るわけでもないのに高宮の生活に張り付いている。
それこそ、朝から……晩まで。
初めて尾行(つ)け回したときはそれが異常な行為とは気付かなかった……が。
そんなものすぐ自覚することになる。
こうやって出てくるのを待ち伏せている時間や、今となっては慣れてしまった尾行け回る時間。
冷静な思考時間が出来れば否応なしに自分の異常さを再確認してしまう。
……学校は。単位は。自分の時間は。
どれもこれも高宮に割いては意味もなく散らしている。
それでも……
高宮を見ている間、高宮と触れていた高校時代の瞬間を思い出すことが出来る……
それは、喩えようもなく幸せだった。
だから俺は、今日もこうして高宮の背中を追いかける。
あいつとの一方的な再会を果たしてから一週間。
高宮の生活に張り付いてわかったのは、やはりあいつは真面目だということ。
大学一年生らしく朝一の講義にもきちんと出席し、多目的っぽいサークルでしっかりと周囲の人間と交遊を深め、飯時にはそのサークルの友人と帰宅する。
たまにその友人と帰りに寄り道したり、夕飯を食べることがあっても、概ねそんなような生活を送っているようだった。
「……今日も、一限か」
高宮と一つ離れた車両の電車に乗り込み、時間を確認してみるとちょうど8時半を指す頃だった。
――高宮の現住所は俺の自宅から二駅ほど離れたところだった。
アパートの部屋の規模や、ベランダから干された洗濯物の量から見ても、高宮が一人住まいなのは間違いない。
……それが高校時代からそうだったのかは、わからないが。
高宮の大学は中堅所で、俺の大学の通学区間の中間に位置していた。
二度と会えないと思ったのに、こんな近くに居ただなんて。
(……運命?)
呟いて、俺は一人自嘲を洩らす。
こんな異常行動者らしい発想だと思ったからだ。
『間もなく、○○大学前、○○大学前。お降りのお客様は……』
高宮の大学の最寄り駅に着いたようだった。
周りの人と一つリズムを遅らせ、降車する。
……高宮に、気付かれないように。
高宮の大学の規模は俺の通っていた大学よりも小さく……
――とはいっても、メジャーな大学なのでキャンパスが各地に分かれているだけなのだが。
その構造はすぐに把握できた。
だいたいの大学がそうであるように高宮の大学も特に入校に関して規制があるわけではなく、難なく潜り込むことが出来ている。
高宮が朝一の講義を受けている間、さすがに授業にまで顔を覗かすわけにはいかないので、キャンパス内の広場のベンチに腰を下ろす。
「……なにやってんだか」
朝一ということもあり、授業が始まると校舎外には殆ど人が居なくなっていた。
カムフラージュ用にと、大して興味もないのに買った文庫本を開いてみても、文章の羅列を目で追うだけだった。
その内容は全くといっていいほど頭に入ってこない。
しかし、だからといって考え込んだって……いつものように自己嫌悪に陥るだけだ。
作業のように、ぺらぺらと薄い紙切れを捲っていく。
「その本、好きなんですか?」
「うわっ!え!?」
ずっと俯いて作業に没頭していたせいか、人が近くに来ているのに気付かなかった。
そして、こんな知り合いも居ないところで声を掛けられるとは思っていなかった。
俺は見ず知らずの男の声に盛大に驚いてしまったようで、逆に相手も小さく”わっ”と一歩下がってしまった。
「そ、そんな驚くとは思ってなくて。すいません」
「い、いや……こ、こっちこそ、すいません……」
そうでなくても対人関係においてノンスキルな俺は、初対面の人間と円滑に話すなんて不可能なのだ。
目も見ずにそそくさとその場を去ろうと本を鞄に仕舞おうとする。
「あの、その本好きなんですか?」
しかし、相手は俺と逆のタイプの人間のようだ。
気まずさなどどこ吹く風で何事もなかったかのようにもう一度同じ質問を投げかけてくる。
「こ、これ……はい、大好きです」
当たり障りなく会話をする為についやってしまう、かけらも心の篭ってない同調。
もう一度改めて手に取ってみるが、やっぱり全く興味がない。どう見ても、全く。
しかもよくよく表紙を見ると……
『ヴェゼンディの闇 8』
とある。……完璧にシリーズものだ。
「俺もそれ大好きなんすよ!周りに読んでる友達居なくてテンション上がっていきなり声掛けちゃって……すいませんホント」
爽やかにテンションを上げる見知らぬ男A。テンションに比例して口調まで砕けだした。
やばい、本格的に俺の理解不能な人種だ。
動揺しながら、初めてまともにその男の顔を見る。
「……あ」
小さく声を出してから、俺は慌てて自分の口に蓋をする。
こいつ……高宮とよく一緒に電車で帰ってる奴だ……!
「?どうかしました?」
「い、い、いや、なんでもっ」
誰がどう見ても不審にしか振舞えない俺を、気がいいのか……それとも特に何も考えない人なのか。
遠藤と名乗った高宮の友人は食堂のテラスに俺を誘ってくれた。
正直ヘマをして自分の奇行がバレるが嫌だったから一緒に行きたくはなかったが……
やはり対人スキルがゼロの俺はただのイエスマンでしかなかった。
「学科は?ってか一年生……だよね?」
会話の取っ掛かりにはそこを聞いてくるよな、大学生は。
「い、一年です。け、経済専攻してます」
そこらへんは粗方予測できたので、比較的不審人物っぽくない回答を出来たと言えるだろう。
この学校に経済学科があるのはリサーチ済みだ。
俺の本当に通っている学校でも経済学科を専攻しているから、嘘もついてない。苦しくない。
「へぇー。チャラいやつらばっかりで大変でしょ」
「そ、そんなこと、ないよ」
俺の視点から見ればほぼ総ての人間がチャラけたリア充にしか見えず、遠藤もその例外ではないのだが、あえてそこには触れずにいる。
「俺も一年で人文コミュニケーションやってるよ。同い年だし、宜しくな」
宜しくされても……とは思うのだが。
「よ、よろしくおねがいします」
情けないことにこんなことしか言えない。
「それにス○イヤーズ好きの同士だしな!」
「は、はあ……」
どうやら先ほどの本のことを言っているらしい。
全く内容を知らずにいきなり8巻から手を出した俺は乾いた笑いを浮かべる他ない。
こうなることがわかっていたなら、俺は間違いなくあんな本ではなく『停滞する中国経済の未来』を買っていただろう。
後悔先に立たず。
「そういえば訊きそびれてたけど……キミ、名前は?」
そう訊かれて少し迷った。
高宮に伝わってしまうと厄介なことになる。
「……ぼくは……」
「……!」
俯く俺を他所に、遠藤は俺の肩越しの何かに反応した。
「?」
「ちっ、高宮……!」
舌打ちする遠藤。
「……え?」
「お、遠藤。なんだ、お前も休講かー」
――この声、高宮……!!
その衝撃に俺は振り向くことさえ出来なかった。
近づいてくる気配。
「お、なんだ?遠藤の学科の友達?」
「いや、さっき知り合ったばっかの……ん?どうした?」
俺の顔色を伺うように覗き込む遠藤。
冷や汗が頬を伝う。自分では赤くなってるのか蒼くなってるのかもわからない。
――どうしよう、どうしよう……!!
「君、大丈夫……?」
ぽん、と肩に置かれた手。
顔を上げると、心配そうな高宮の顔が、そこにあった。
初めてかもしれない、真正面からの……高宮の目線。
「え?……市ノ瀬……?」
「……っ!!」
途端、鞄を掴んで弾かれたように俺は走り出した。
「ちょっと!?」
声を上げたのは、高宮だったのか、遠藤だったのか。
自分の鼓動がノイズとなって上手く聞き取ることは出来なかった。
「……っはぁ、はぁ……ゴホッ!」
自分にこんな底力があったのか、っていうほど、走り抜けた。
体育の短距離走ですらこんなに真剣に走ったことはない。
一度も止まらず、すれ違う人間の目線も構わず。
一気に校外に飛び出した俺の身体は、嘗てない酷使に気管支が悲鳴を上げていた。
人目も憚らず、壁に凭れ掛かる。
――俺のこと、覚えてた……
呼吸が整ってくると、すぐに何回も頭の中で再会の場面を繰り返す。
確かに、高宮は俺の目を見て、俺の名前を言った。
……胸の裡が温かく満たされていくのがわかる。
ああ、やはり俺はあいつのことが好きなのだ。
「……だけど……」
そんな夢を見ていられる時間も、もう終わりなのかも知れない。
どう考えても俺があいつの学校に居るという状況はおかしい。
……逃げ出したなら、尚更。
仰ぐように空を見る。
天気は快晴……主人公は不細工な俺、エンディングはストーカー行為の成れの果て。
……恋愛ドラマのようになんて、いくわけない。
こんな、こんな俺が……
――一体、俺は何を期待していたんだろう。
叶わないと諦めて。それでも運命的に再び巡り会って。
俺は一人舞い上がっていた。
こんなことしてたってなんにもならないって……どこかでは気付いていた筈なのに。
ただ……あいつと関わりがあれば……それはどんな些細なことでも、俺は幸せだった。
「……ちくしょう……!」
崩れるように座り込んで、泣きじゃくってしまう。
きっと周りの人は同情なんかとは程遠い、気違いでも見るような目線を俺にくれていることだろう。
なにも見たくなくて、縮こまるように嗚咽を抑え続ける。
しかし不意に、力強く俺の肩が握られる。
「!?」
驚いて飛び退きそうになるが、力強く肩に置かれた手がそれを許してはくれなかった。
……高宮の、手が。
「はぁ……お前、そんなすばしっこかったんだな。知らなかったぞ……」
「高宮……くん」
俺を……追ってきたのか……
「こんなことならサンダルで来るんじゃなかった……もう、逃げんなよ!?」
一層手に力を込めて凄まれては、俺には何度も頷くことしか出来なかった。
「お前は?なんか食う?」
高宮に引きずられるように連れてこられたのは……大衆食堂、とでもいうのだろうか。
ごみごみした雰囲気や馴れ馴れしい店員が居るという先入観から、一回も利用したことがないジャンルの飲食店である。
そして、その先入観はそのまま裏切られることはなかった。
「僕は……えと、……その……」
慣れない環境に適応するには、常人の20倍は時間を要するんではないか。
そんな余りに誇れない自負さえ持つ俺の目の前には、何故か憧れた男が居る。
……これで、適応時間に軽く3乗倍は掛かるのではないだろうか。
そんな風にしどろもどろする俺を見て、普通の人なら苛つくところだろう。
「店員さーん!すいませーん!」
俺に振った割りにすぐさま店員を呼ぶ高宮。
店員が来ると、高宮はすぐにお勧めを店員に尋ねる。
「このペラペラのメニューがオススメのメニューだってさ。この中で何が好き?」
「す、好き……?えっと……特に」
「じゃあこの中で苦手なもの入ってるやつあるか?ほら、野菜とか」
「……キノコ、駄目かも……」
「んじゃこれとこれはダメだな……これなんかどうだ?『焼き鳥丼定食』。美味そうだぞ」
「じゃ、じゃあそれ、で……」
「おし、決まり。勿論大盛りだろ?はは」
まごまごする俺に苛ついた様子も見せず、店員さんに俺の分と自分の分の注文を頼む高宮。
……そう、殆ど付き合いのない俺の扱い方さえ、高宮は心得ている。
その人が何を考え、何を求めているのか。
意識してかはわからないが、高宮はそこら辺を読み取り、応える能力に秀でている。
遠くからでも、高宮をずっと見てきた俺にはわかる。
だからこそ、高宮の周りにはいつもたくさんの人が集まっていた。
人が集まるやつには、それだけの理由があるのだ。
そして……集まらないやつにも、それなりの理由が。
そんな寂しい人間の代表格とも言える俺の目の前に、今、高宮が居る。
今、この瞬間が奇跡のようで、俺は本当に落ち着けなかった。
「……相変わらずそわそわしてんのな、市ノ瀬って」
「うっ……ごめん……」
「謝るとこかよー。俺は面白くて結構好きだけどね、その挙動不審。
久しぶりに見れてなんかほっとしたよ」
そう言ってまた笑う高宮。
”好き”――……
これも俺の心の裡を読んで、それに応えているだけなのだろうか。
だとしたら、やめてほしい。
そんな一言で俺はこんな簡単におかしくなってしまうんだから。
「おい、黙られると俺が恥ずかしいだろうがよ?」
「……ごめん……」
本当、詰まらない男だ。
自分で自分に辟易する。
焼き鳥丼定食の味は殆どわからなかった。
ただ、悲しいことに俺の性なのか。目の前の丼やら椀やらからはさくさくと容量が削られていく。
ぎくしゃくと壊れたゼンマイ人形のように食事する俺の目の前でも、高宮は喋り続けてくれていた。
俺は殆ど気の抜けた相槌しか打てていないというのに。笑顔で、止め処なく。
そんなところが本当に大好きで、湧き上がってくるものを抑えられない。
無理にでも抑えつけようと、俺は残った丼を一気に掻き込んだ。
高宮は器用にもあれだけ喋りながらとうに食事を終えていて、俺が食べ終わるのを待っていてくれたようだった。
「足りたか?甘いもんとか食う?」
俺がふるふると首を振ると、”そっか”と頷いて、初めて高宮が黙った。
本当に人が出来ているこの男は、間の取り方も完璧なのだ。
「でさ、市ノ瀬はなんで俺の大学に?」
今まで少しもそのことに触れず、俺が落ち着いたところでその話題を持ってきてくれる。
わかっていたことだ。
しかし俺には、俺をこの先”まともな人間”として見てもらえるような、そんな上手い言い訳は思いつかなかった。
あるいは高宮ほどの人間なら上手く切り抜けられるのかもしれない……
などと漠然と考えてはみたものの、そもそも高宮のような人間はこんな異常行動に走るはずがないと思い当たる。
「…………」
「まいったなぁ……そんな顔されちゃ、俺苛めてるみたいじゃんか」
高宮が弱ったような声を上げて、頭を掻く。
「ち、違うよ……高宮くんは、そんなことしない」
自分が高宮を困らせていると思うと、辛抱たまらなかった。
だが、それでも真実を告白する勇気なんて、俺には……
「俺、が関わってるんだろ?」
「!」
びくっと体が震える。
「会った途端あんな顔されて、逃げられて……挙句、泣かれたんじゃ誰でもそう思うって」
「……ぼく……」
「ふーっ……」
深い溜息は、高宮のものだった。
どうかしたのかと、おずおずと視線を上げる俺。
しかし、俺は目を疑った。
高宮は笑っていた。それも、見たことのないような……
邪悪な顔で。
「お前、俺のこと好きなんだろう」
「……え」
続いて、俺は耳を疑った。
俺は少なくとも常人のこれまた20倍は悪口を言われてここまでの人生を歩んできたと自負している。
その悪口の中でも特に心を抉るのは陰口だった。
常人の20倍も悪口と親しんでいれば、当然その陰口を直接聞いてしまうこともしばしばあって。
俺はそのたびに酷く打ちひしがれたものだが……
……それらどの陰口よりも、高宮の今の口調は嘲笑を孕んでいた。
俺の存在そのものに。
「気付いてたよ、お前が俺のこと尾行けまわしてるのは」
「……!!」
羞恥に耳まで赤くなる。
高宮の口は俺に驚く間も与えてくれなかった。
「それどころか、お前が俺に好意を持ってることだって……ずっと前から、さ」
「な、なに言って……!」
「うすうす感じるものがある程度だったけどな……
卒業式の日に、あんな態度で呼び止められれば……まあ確信するわな」
にやにやと薄ら笑いを浮かべた高宮の顔は、もはや別人のそれだった。
吐き気すら覚える。
いつもそうしてきた、習性のようなものが働く。
反射的に立ち上がり、逃げ出そうとした。嫌なもの全部から。
「!」
しかし、高宮はそうする俺の行動を読んだかのように、素早く俺の腕を掴んだ。
「待てって。話は終わってないだろ」
さっき大学の前で掴まれた時より、何倍も強く掴まれた。
「い、痛い……離して……」
「なら、先ずは座ろうぜ?」
促されるままに、情けなく座り込む。
お店の喧騒に紛れ込ませるような高宮の声音。
きょろきょろと周りを見渡しても、誰も俺たちの席の異常さに気付かない様子だ。
目の前のこいつは、誰だ……!?
俺は、高宮を追っているようで、実は全然違うやつを追っていたんじゃないだろうか。
電車で偶然の再会を果たしたと思った、あの時から。
……そんな幻想に逃げ込もうとしてみても、もう一度高宮を見てみるとそれはいとも簡単に打ち砕かれる。
どんなに邪悪に歪もうとも、やはりそれは追い求めた高宮の整った顔立ちだった。
くっ、と高宮が笑う。
「どうなるんだろうな?オトコがオトコをストーカーする行為って。
やっぱ犯罪になるんだろうな?」
さも面白そうに、高宮は言う。
犯罪、という響きに俺は愕然とする。
「……い、言わないで……ください……」
「あ?」
高宮は”聞こえません”というように、耳に手を当て馬鹿にしたようなジェスチャーを作った。
「言わないで、下さい・・・・・・」
「そしたらお前、あれだろ?俺のジンケンをシンガイしたんだから、当然それなりのセイイ、が必要になってくるよな?」
このやりとりには、馴染みがあった。
何回か経験がある……いわゆる、かつあげ。
「いくら……払えば」
「あははははは!」
我慢できない、というように高宮が笑った。
「いかにも市ノ瀬らしい発想だよな?
俺はそんなチンピラみたいな真似、しないよ」
高宮が何を言いたいのか、さっぱりわからなかった。
「俺さ…賭け、してんだよ。さっき居ただろ?あの遠藤ってやつと」
「……賭け……な、なにを……?」
俺が訊くと、高宮の笑みは一層凶悪になった。
「お前が、俺に告白するかどうかだよ」
俺は酷く疲れていた。
自分の部屋に帰ってもいつものようにパソコンを開くこともしなかった。
雪崩れ込むようにベッドに倒れこむと、圧倒的な睡魔が襲ってくる。
しかしその欲求に身を委ねようとすると、どうしても高宮のことが頭に浮かぶのだ。
……高宮は、俺が告白する方に五万もの金を賭けたらしい。
遠藤は男が男になんて有り得ない、としない方に五万。
高宮は自分に向けられた俺の好意に絶対の自信を持っていたのだ。
それはあながち間違っていない。俺は、完璧に盲目的に高宮に恋していた。
……馬鹿なくらい、盲目的に。
結局何も見えていなかったんだ。
高宮はたしかに処世術やコミュニケーション能力に長けていた。
だが、そういう表面しか見えていなかった。
高宮はそんな相手の気持ちを酌む能力を、純粋に相手の為だけに遣うようなやつじゃなかった。
しかし、そんな高宮にとって予想外のこともあった。
俺の、人類稀に見るヘタレ加減。
ストーカー行為まで行う俺に接触して優しくすれば、先ず間違いなくあの卒業式の続きの言葉を吐くだろう。
そう見越していた高宮は、あとは俺にどう”それ”を言わせるかを考えるだけだったのだが。
賭け相手の遠藤に先に無防備に大学をうろつく『賭けの対象』(俺)に接触されてしまった。
――高宮が俺の付きまといに気付いていたなら、当然一緒に帰ってる遠藤にも密かに付きまとう俺を教えるわけで。
俺の顔なんかは遠藤にもモロバレだったわけだ。
それを見て何か吹き込まれやしないかと焦った高宮が算段も決まらないうちに俺と接触してみたものの……
以前以上の俺のヘタレっぷりに告白の見込みがないと判断した高宮は、脅しとしゃれ込む……か。
……笑える。
「ははははっ!……はは、は……
くっそぉ!!!!!」
顔を埋めていた枕を、思い切り壁に投げ付ける。
小学生の頃描いた抽象画(確か、ミドリガメを描いたはずだ)が貼られた額縁に見事命中し、額縁は盛大な音を立てて床に散った。
「歩ー?どうしたの?すごい音したわよ!?」
すぐに母親が部屋の戸を叩きにやってきた。
「だいじょうぶ、絵が落ちただけ。ネジ緩くなってたみたい」
俺の部屋には鍵が掛かっている。
こちらから開けない限り部屋の惨状が見られることはない。
「もう……びっくりしたじゃない。怪我はないの?」
「平気。平気だから……」
母親の足音が遠ざかっていく。
俺は無表情に床を睨みつける。
粉々になった額縁は妙に俺の心をざらつかせた。
「録音して遠藤に叩きつけてやるからさ、一言言ってくれるだけでいいんだよ……
”高宮くん、付き合って下さい”ってさ」
……高宮に連れられてきた公園はがらんとした割りに遊具が少なく、それ故人も疎らだった。
脅迫にはうってつけ、ってわけか。
ちゃらーん、と間抜けな音が鳴る。
「…………」
「早く。もう録音始まってるんだぜ?」
……あの時言えなかった言葉が、こんな形で。
意思とは無関係に、嗚咽が出始めた。
「お、その方がリアルでいいな」
高宮は楽しそうに手を叩いた。
もう……俺の知っている高宮はいない……
いや、初めから”そんなものいなかった”。
「……っく、ひっく……
つ、付き合って下さい……」
「そんな小さな声じゃ掠れて聞き取れない」
高宮の目は笑っているが、光が篭ってない。
「つ、付き合って下さい……!高宮くん……!!」
「上出来」
もう一度間抜けな音が鳴ると、高宮は満足そうに笑った。
「じゃあな。もう付き纏うなよ。
お前の体系じゃ隠れてみたって丸わかりだからよ」
俯く俺。
遠ざかっていく高宮の足音。
「おっと、それとちゃんと返事しとかねぇとな」
――あいにく、デブホモストーカーには興味ありません!なんて、さ。
最後にもう一度大きく笑って、高宮は去っていた。
――寝て、たのか。
まだ外は暗い。時計を見ると午前3時を回ったところだった。
……夢でまでフラッシュバックされるなんて……ショックは甚大、か。
「いてっ」
ベッドから降り立つと、先ほど砕いた額縁のガラスがここまで散っていた。
足の親指を少し切ってしまった。
取り合えず、ビニール袋を取り出し片付けることにする。
ガラスの欠片を見落とさないように照明を付けると、殆ど抽象画のミドリガメが惨めにガラスに塗れていた。
これを描いた小学生の頃、一体俺はどんな子どもだっただろう。
……やめた。
何故ならこのミドリガメと同じか、或いはそれ以上惨めな俺がそこに居るだけだから。
「当然の報い……」
高宮がどんな男だったかなんて、そんなの大した問題じゃない。
俺がやったことは確かに許されないことであって。
その制裁を下したのが高宮本人だっただけに過ぎない。
いずれどんな形にせよ、俺には相応の罰が待っていただろう。
「恋心を踏みにじられた……?」
そういう自分に浸っていたいだけだろう。
自分しか見えてないから、あんな行動に走った……
あんな気持ちが、恋心であるはずがない……
「だったら……」
なんでこんな悲しいんだろう。
恋心じゃなかったとしたら、高宮を見て満たされていく気持ちは一体なんだったんだろう。
なんで……高宮に言われたことを思い出して、また泣いているんだろう。
……ガラスを拾い集めて、今度は手の親指を切った。
「……俺、何のために生きてんだろ……」
独りごちてはみたものの、誰も応えてくれない。
それも、いつも通りだった。
一年後、その電話は突然やってきた。
今までと変わらず、殻に篭る生活を続けてきた俺に大学の友人など一人も居ないし、
中高と友人の引継ぎが一人も居ない事実上究極の完全孤立個体である俺の電話が鳴ることなんて滅多にない。
そんな俺の電話に知らない番号から掛かってくれば、警戒するのは当然といえる。
少し迷って、4コール目で出る。
「……もしもし」
俺はすぐにそれを後悔する。
『あ、俺おれ!市ノ瀬くんのストーカー被害者の高宮でーす!』
呼び出されたのは、高宮の家の最寄り駅。
一年前、ほんの一週間程度だが通いつめた場所だ。
……思い返して、少し自嘲が出る。そして、今日のこれからを思うと胃痛もする。
久しぶりに見る高宮は、髪を染めていた。
日焼けして、以前より少し太ったかもしれない。
前はもっとガッシリしていたのに、と一人幻滅してみる。
「お前、ハタチになった?」
会うなり、”久しぶり”もなく高宮は訪ねてくる。
「え、まあ……なんで」
「なら、年齢確認されても大丈夫だな!」
高宮は歯をむき出してあの性格の悪そうな笑い方をした。
厭な予感しか迸らなかった。
「お前、よく来たよなー!俺にあんなことされたのに」
高宮に引っ張られるように連れてこられたのが大手チェーンの居酒屋。
俺は酒なんて産まれてこの方呑んだことがない。
当然行きたくない……のだが、選択肢なんてなかった。
「……脅したくせに」
割り切ろうとしたって、高宮のやってくれたことは時間を追うごとに悲しみが淘汰され、憎憎しい記憶として刻印されていった。
俺は、そういう自分勝手な人間なんだとつくづく思う。
「そもそもお前が俺のことストーカーするからだろ」
そう、それを言われたら何も言い返せない。
事実として高宮は俺のことを賭けの対象にはしたが、俺に特別害を加えたりはしなかった。
あれから暫くパトカーのサイレンや巡回する警察に怯える日々が続いたが、完璧な取り越し苦労だった。
本当に、俺で”遊んだ”だけだった。
「……くそっ」
「市ノ瀬、少し印象変わったか?」
「高宮ほどじゃない」
「呼び捨てかよっ。あ、店員さん、生二つねー!」
いつかの大衆食堂を思い出し、少し複雑な気分になった。
あの時も、こうやってリードしてくれていたっけか。
あの頃と高宮を見る目線は180度変わっているけど。
「で、なんの用」
自分の中から一つ恋愛感情が消えただけでこうも接し易くなるものかと思った。
……現金だ、本当。
「そんなツンケンすんなよな。お前の連絡先探すの超タイヘンだったんだから。
どんだけお前トモダチいねぇんだよ!そして俺どんだけトモダチいるんだよっ!」
無闇に自分をひけらかすタイプじゃない人間だと思っていただけに、尚更自分の温度が冷えていくのがわかる。
「……高宮って、普段からそうなの」
「は?どういう意味?」
「……誰に対してもそうやって得意気なのかって」
「はぁー?」
高宮は心底馬鹿にしたように、俺のことを見た。
「相手によって変えるに決まってんだろ、そんなの。
お前だって変わってんじゃん。前までの俺に対する態度と」
「!」
「そこら辺わかってねぇからトモダチいねぇんだよ。市ノ瀬はさー」
どうしてこんなムカつく口調で正論で詰られなければならないんだろうか。
「……帰りたい」
「お?言っちゃう?そういうこと。
弱味を握ってる俺の前で……」
心底、過去の自分の愚行を呪う。
「……用があるなら早くしてよ」
「なんで居酒屋来て”早く”とかいう単語が出て来るんだよ。ここ、文字通り居座るところだぜ?
お、ありがとね、おねぇさん」
店員の女が運んできた生ビールをすっと俺に差し出す高宮。
なんで、こいつのこういう動きはこんなにも迅速なのだろうか。
本当に、こういうところが友達製作に必要なツールなのかも知れない……
と思いかけて、高宮に感化されかけていることに気付く。
負けないよう、自分の顔をお絞りで覆う。
「おいー、ジョッキ持つ手が重いんだけどー」
見ると、高宮がジョッキを掲げている。
これが噂に聞く”カンパイ”というやつだろうか。
「……ん」
高宮の掲げるジョッキの底ら辺にこつっと、自分のジョッキの先っぽを当てる。
「かんぱーい」
高宮が声高に言った。
同時に発声するのか復唱すればいいのかすらわからなかったが、高宮の不満そうな顔を見るとどちらにしても遅かったようだ。
「ま、いいや。とりあえず飲め。初恋の人にデビューを見取って貰うなんて、そうそうない機会だろ」
「……高宮、うざい」
ジョッキに口を付けると、その苦さに驚いた。
ジョッキ越しに高宮がニヤニヤしているのが見えた。
カチンと来た俺は殆ど負けん気だけで、ジョッキを一気に飲み干した。
「マジか!」
「……まっず。なんでこんなの頼んだの」
まずかった。が、高宮の驚いた顔が見れたのは悪い気分ではない。
負けじと高宮も一気に飲み干す。
「乾杯はビールって日本じゃ法律で決まってんだよ!」
「馬鹿くさ。好きなの呑めばいいじゃん」
「俺は好きだからいいんだよ!」
「俺はふつうにウーロン茶が良かった」
「一人称まで変わってやがる。店員さーん、次は冷酒ねー!あと枝豆とスジ煮!」
以前は俺の意見を採り入れてオーダーしてくれたのに、と思ったものの、もう高宮にそういうのを期待するのはやめにした。
それだけ疲れるだけだ。
「……高宮、うるさい。店員呼ぶボタンここにあるから」
「……お前、ホントに市ノ瀬?」
「それ、俺一年前にお前に思った」
「案外切り返し上手いぞ、お前」
高宮が笑った。
釣られて笑いそうになって、俺ははっとなる。
……俺、今楽しいと思ってるのか……?
そういえば、大学に入ってから同い年のやつとこんなに話したの……初めてかもしれない。
「変な顔してんなよ。不細工が余計歪んでるぞ。おら、冷酒来てんぞ」
「……ほっとけ。……なんで空のグラス渡すんだよ」
「いいから持ってろ。注いでやっから。で、俺が注いだらお前が俺のを注ぐ、と」
「?……面倒くさ。なんでいちいちそんなことすんの」
「知るかよ!そういうもんなんだとよ。後それグラスじゃなくてお猪口な」
言われたとおり、高宮のお猪口に注いでやる。
にしても、なんでこんな小さい容器に注ぐんだろう。
一杯目がまずいものジョッキいっぱいに入っていたため、俺は少し安堵する。
「あっ」
一気に飲み干す俺を見て、高宮が小さく声を上げた。
……これは、ビールより遥かに呑み易い。元々俺は炭酸飲料がそんなに好きではないのだ。
「……?なに?」
「なんでお前、全部一気飲みするんだ?」
「そういうもんじゃないの?」
「誤ったイメージだろ、それ」
「知らなくて当然だろ、今日が初めてなんだから。
……こっちがジョッキの方が良かった」
「はあ!?」
高宮が奇声を上げた。
「……高宮って、結構五月蝿いやつだったんだな」
だが、高宮が驚くのはやっぱり悪くない気分だった。
小さな仕返しが出来た心地だ。
「お前、なんともないの?」
「……別に。なんで?」
高宮も何故か、一気に冷酒を飲み干した。
「誤ったイメージなんじゃなかったの?」
「……お前みたいな奴に負けちゃ悔しいだろが」
「なんだそれ」
言ってる間に料理が運ばれてきて、高宮はまたなにやら店員に頼んでいる。
当然、俺の意見は聞かずに。
――喉、渇いた……
酷い渇きを感じて目を開けると、天井が俺の部屋とは違うことに気がつく。
「……?」
続いてのろのろと回りを見回すと、そもそも部屋が違うということに思い当たる。
狭い。そして暗い。
俺は布団で寝転がっていたようだ。
ここが何処だか、今が何時だかわからないが、何より喉が渇いた。
水を求めてのっそりと立ち上がり、歩き出……
「ぐげっ」
なにか、踏んだ。
蛙が潰れたような呻き声で、タオルケットの固まりかと思っていたところに人が寝ていた事に気付く。
「んー?」
「ってぇな、このデブ!」
「うわ」
タオルケットをぶち破って出てきたのは、高宮だった。
高宮の顔を見て、こいつと呑んでいた事実を思い出す。
しかし、そんなことよりも。
「……高宮、水どこ」
掠れた声しか出ない。よっぽどだ。
「先ずは謝れハゲ。お前が今踏んだの、俺のけい動脈なんだぞ……」
「……ごめん、だから水」
「そこ出りゃ水道水飲み放題だよ、クソが」
水をこんなに美味しく感じるとは……
どれだけ喉が渇いていたんだ、俺は。
コップも使わず、顔を蛇口に近づけてそのまま水を飲む。
どれだけそうしていたか、飲んだ量に比例して頭が冴えてきた。
「ここは……高宮の、家か」
終電を逃した……ように記憶している。
細かい経緯は思い出せないが、高宮の方から家に来るよう促してくれたような気がする。
……あんなに外から眺めて、焦がれたここに……こんな形で。
感慨深いものだが、やっぱり今は喉の渇きが優先だった。
「……結局、なんで今日呼んだの、俺のこと」
部屋に戻ると、高宮はまた先ほどと同じようにタオルケットに包まって山となっていた。
「……忘れちまった、呑んでるうちに」
寝転がった姿勢を変えずに、高宮が応えた。
明らかな嘘だが、別にもうそんなのどうでも良かった。
今日は楽しかったから。本当に。
「……高宮、ありがと。俺みたいな変態のぼっちと遊んでくれてさ」
「自覚あったのか。まだ救いあるんじゃねえの」
「ほんとに、感謝してるよ」
「……そんなんだから、トモダチいねぇんだよ、お前は」
高宮が言うなら、そうなのかも知れない。
そんな風に思ってしまう俺は、どうやらたった一日で高宮に感化されてしまったようだった。
そんなことがあってから、俺は少し変わった。
誰かに何かを期待するのを、やめてみた。
ほんの少し、自分から何かをしてみるようにしてみた。
何処かの、誰かを真似して。
ただ、今になって思い出す……
”たまに疲れるんだよ。誰にでも合わせられる。
ただ、合わせてる内にどれが本当の自分かわからなくなる”
あいつは酔って、確かそんなことを言っていた。
あいつは本当はきっとどうしようもなく性格が悪いのが素なんだ。
俺みたいに見下してるやつ相手じゃないと本当の自分が出せないことに、”賭けに勝ったあの日”気がついたんじゃないかと思う。
そして、自分の多面性に潰されそうになったとき、ふと本当の自分を確認したくなったのが、あの唐突な飲みの誘いだったんじゃないか。
……まあ、今となっては推測しか出来ないが。
それ以来高宮から連絡は来なかったし、暫くしてこちらから連絡する頃には高宮の連絡先は変わっていた。
しかし、あいつがいかに性格が悪かろうと、俺に影響を与えてくれた人間であることは確かだ。
……それはもう、いろんな意味で。
既に恋愛感情など枯れ切っている高宮だが、片思いのあの頃から抱いている一種の尊敬のようなものは……未だに消えていない。
大学を笑顔で卒業できたのも、就職できたのも、今、俺に彼氏が居るのも……
もしかたらすべてあの、本当は性格がとても悪い彼のお陰なのかも知れないのだから。
ふと、電話が鳴る。
少し変わったとはいえ、やっぱり俺には友達が少ない。
彼氏が仕事中の時間の今、電話が鳴るのは珍しい。
それが知らない番号から掛かってきた電話となれば、警戒するのは当然といえる。
……待てよ、このパターンは……?
少し迷って、そしてほんの少し期待して、4コール目で出る。
「もしもし?」
『あ、俺おれ!市ノ瀬くんのストーカー被害者の高宮でーす!』