「・・・・・・・・・・・・おわ」
目の前で男に尻を衝かれ喘ぎ声を上げていた巨漢。
そいつはその画(え)に負けず劣らず、滑稽な声を上げた。
遅れて、衝いていた方の男も気付く。
「う、うわ!?」
「・・・邪魔、しちゃったね。続けていいよ。じゃ」
もっと滑稽なのは、オレの方か。
この跨る大男に、この場所で、いつも跨っていたのだから。
ふっと短く息を吐き、踵を返す。
「ちょ、ちょっと待てよ!裕(ゆう)」
かちゃかちゃとベルトを締める音が聞こえたが、流石にこれは待つ義理もない。
――買い物、切り上げてこなきゃ良かったな・・・
速めるようなことはしなかったが、現場を見る前と同じ速度で部屋を出る。
靴を履き、玄関を出て。
エレベータに向かう最初の角で、奴に追いつかれる。
「言い訳位させろよ」
こんな距離で息切れするのか。
学生時代はラグビー部だったって話、本当なんだろうか・・・
面影があるとすれば短く刈られたその黒髪だけであるように思う。
変に冷静に頭が働く。
「部屋、あの人だけ残して出てきたの?オレの私物もあるから困るんだけどな」
「か、帰らせるから待っててくれよ。ってか、あああもう、何言ってんだオレは」
付き合っている相手の浮気現場を見たオレよりも、浮気をしている当人の方が泡を食っているのだから笑える。
この状況が、また一段とオレの思考を冷やす。
「だから、続けてていいよ。オレはもう俊(とし)とはやっていけないから。
次はあの人を大事にしてあげな」
――次は。
自分で言って、真理を得ているのではないかと思った。
この世界の人間は、誰しも相手を軽く見ている。
”こいつだけは違う、こいつだけはきっと”
初めて付き合った人、その次付き合った人、そしてその次に付き合った人、までくらいだろうか。
・・・そんな風に思えていたのは。
裏切られる度に傷つくのを厭って、裏切られるその日を見越すようになった。
相手に深入りしないようになっていった。
相手がオレに飽きるまで付き合う、それでいいじゃないか。
そこに腹を立てても仕方ない・・・初めからそういうものなんだって思っていれば。
「・・・お、オレはお前と別れたくない」
「・・・ぷっ」
このやりとりも何回かしたことがあって、その滑稽さにオレは吹き出した。
オレが浮気を知り、相手を見限り・・・その度こんな勝手なことを言ってくる奴、結構居る。
・・・俊、お前もだったのか。
他の人よりは長く続いたし、流れとはいえ同棲するまでに到っていた。
”もしかしたら”、なんて気持ちが何処かにはあったのかも知れない。
オレは現場を見たことよりも、そのことに少し悲しくなった。
「オレ、間違ったことしちまったけど、お前と別れたくねぇよ」
「なら少しは悪びれたら?ま、今更反省なんて関係ないけどね。
お前はオレに飽きた、ただそれだけ。そんなお前にオレも愛想尽かした、ただそれだけ」
自分に正直な男だからな、こいつという男は。
浮気の衝動も、オレと別れたくないという本音も、嘘がないほどに真っ直ぐだったんだろう。
だけど、これで許して付き合ったって、オレはこれからこいつにきっと何の感情も沸かない。
ただ、そんな自分に嫌気が差すだけだ。
「話聞いてくれよ・・・うおっ!」
体当たりに近い勢いで俊を吹き飛ばし、競歩で去る先程の浮気相手、Aさん。
オレには目もくれることなく、エレベータ・・・を通り越して階段を音を立てて下っていく。
自称元ビー部を吹き飛ばすとは、中々やる。
「早く追いなよ」
「いや、お前との話の方が大事だ」
自分でも意外だった。
俊のその言葉に、何よりも煮えたぎるものを感じた。
「この、クズッ!!」
マンション中に響くのではないかという大声で叫んだかと思うと、オレは俊を殴りつけた。
「グッ」
俊ほどではないが、オレも結構な体重だ。
俊が堪らず尻餅を着く。
「じゃああの人はなんだったんだよ?
お前、ヒトをなんだと思ってんだよ。お前は何様なんだよ。早く追いついて謝ってこい」
殴るどころか、俊の前では声を荒げるのも初めてだ。
思ったより痛んだ殴った方の手を庇いながら、俊を見下ろす。
俊は目を白黒させながらも、”だけど・・・”などと呟いている。
「オレと話がしたきゃ、あの人に誠意見せて死ぬほど謝ってこい。
いいか、許してもらうまで部屋に戻ってくるなよ。いいな?」
「・・・・・・・・・・・・」
「いいな!?」
ゆっくりと頷くと、切れたのか口元を拭いながら立ち上がる俊。
一瞬だけオレと目を合わせると、Aさんが去っていった方へと駆け出した。
部屋に帰ると、最後まで役目を果たせなかったゴムと散らかった布団だけが残っていた。
その凄惨たる現場を、無言で片付け始めるオレの思考はやっぱり冷え切っていた。
――ああ、あれは昔のオレだったんだな。
Aさんは俊にとって性処理の道具としか見られていなかった。
それは・・・
昔のオレそのもの。
今回と同じように、過去の男の浮気現場に居合わせたことがあった。
――続ければ。
同じことをオレが言ったらあいつは迷わずにオレを捨てて”次”に走った。
その時、オレはあいつを見限りながらも・・・惨めな気持ちを、確かに味わっていた。
どんなに冷静を取り繕ったって、心の底で、確かに。
オレが激昂したのは・・・俊(あいつ)がそんな気持ちを誰かに与えているのが許せなかった・・・ってとこだろう。
布団をタンスに押し込め、気持ちを落ち着かせようとお茶を入れるためヤカンをコンロにかけたとき、丁度俊が帰ってきた。
「・・・ただ、いま」
「おかえり」
コンロの火を弱めて、俊を迎える。
「・・・土下座してきた・・・」
俯いて、俊は言った。
文字通り地に頭をこすり付けたのか、丸い顔の額が少し赤い。
・・・本当に、素直な男だ。
「・・・で、相手はなんて?」
「なんで謝るのって、言われて。
お前に謝れって言われたことをちゃんと話した」
・・・本当に。
「・・・それで」
「俊之(としゆき)は許せない、もう二度と顔も見たくない。
・・・だけど、彼氏さんには・・・ごめんなさい、って伝えてって・・・」
ぐっ、と俊の眉が真ん中に寄った。
「・・・いい人」
自分の彼の浮気相手に適当かどうか、少し迷ったが。
「・・・そう思う」
少し沈黙が続き、ヤカンの笛がその沈黙を破った。
「お茶、淹れるから」
「・・・ああ」
「オレがホントはウケだった・・・ってのも、ぶっちゃけある。あるにはある」
淹れ立てのお茶を、少しばかり吹き出しそうになった。
「だけど、それ以上の理由がある、なんて言ったら・・・言い訳にしか聞こえないだろうが、それでも言わせてほしい」
「いいよ、言ってみな」
「踏み込まないようにしてると思って、お前が」
少し黙って、オレはやっぱり吹き出してしまった。
まさか、愚直なこの男にオレが見透かされていたとは。
「・・・それで、わざと現場を見せてオレを怒らせたかったとでも?」
「違う、そこまで考えてたわけじゃない・・・ただ・・・」
「ただ?」
「ただ、それがどうしようもなく寂しくなる時も・・・あるってことだよ」
回りくどい、それこそらしくない。
「オレの所為だって言いたいの?・・・浮気したの」
俊は大袈裟に頭を振った。
「違う!ケジメも付けずに不埒な態度とったオレが悪い!
・・・でも、結果的に初めてお前が感情を剥き出しにしてるとこ、見れた」
「・・・それがなんだよ」
「やっぱりオレ、お前のこと、好きだ」
・・・このタイミングで、云う言葉なのか。
実直な俊の目はやっぱり何処までも真っ直ぐで。
この状況に相応しくない言葉だとわかっていても、想いのままに出るのだろう。
きっと、オレはそんなこいつが少し羨ましい。
「浮気の後に、節操なさ過ぎ」
「だって、浮気された後に、浮気した当の相手の為に怒れるんだぜ。
本当に、自分が恥ずかしくなったよ」
喋るほどに俊の眼差しが熱を帯びていく。
・・・温度差、だな。
「俊に対して深入りしてないから、浮気のことを怒る気になれなかっただけ。
・・・とは、考えないの?」
「いや」
きっぱりと言い切った後、何故か俊は口篭った。
「・・・何?」
怪訝そうに眉を顰めてやると、俊はぼりぼりと頭を掻いた。
「流石に、裕でも怒ると思って。・・・はは」
「・・・なんだよ、言ってみろよ。怒ってるオレ、見たいんだろ」
たっぷり五秒待ってから、俊は言った。
「裕は、絶対オレのこと好きでいてくれてるっていう自信は、ある」
「・・・は?」
こんなわけのわからないことを言う時も真剣そのものなんだから、困る。
・・・しかし、こいつが意味もない強がりを言う奴でないことも、ましてや自意識が過剰なわけでもないということも厭というほど知っている。
それだけに、オレはうろたえる。
「裕は冷めた態度してるけど。昔(まえ)のことは話してくれないけど。
それでも、オレのことを好きでいてくれてるってのはわかる」
的外れなこと言うなって、もう一回殴りつけてもいい筈なのに。
オレにはそれが出来ない。
「どうしてそう思う」
何故か、喉がカラカラだ。声が少し掠れる。
「・・・お前と居る時間が幸せだから」
短い言葉に、オレは息を呑んだ。
「・・・そんなの、説明になって、ない」
言葉が足りてない、そう思う一方で。
ひどく悔しさを覚えるのは、無意識にこいつの言ったことを認めるからだろうか。
「ただ一緒にメシを食ってるだけでも、話してるだけでも、寝てるだけでも・・・
それを幸せに思うのは、オレがお前を好きで、お前がオレを好きでいてくれるから、初めてそう思えるんだと思う」
「理屈にもなってない」
「理屈じゃねぇよ。でも、裕だけでも、オレだけでも、独り善がりじゃこんな気持ちにはなれないと思う」
唇を、噛んだ。
「・・・じゃあ、浮気すんなよ・・・っ」
踏み込まないようにしていたのに。
こんな風に掻き乱されないために、そうしていたというのに。
「・・・泣いてんのか?」
「!」
俊の無神経な一言をきっかけに、熱いものが込み上げてきて・・・堰を切ったように、零れた。
オレは、慌てて俊に背を向けた。
相手の浮気で、相手の目の前で泣くなんて、オレは・・・そんな惨めなこと、”もう”したくない。
なのに、後から後から止まらない。
「なぁ」
無神経な追い討ちは続く。
俊の手が肩に掛かったので、オレはそれを鬱陶しげに振り払った。
「お、おまえ・・・ほんとに、むし、無神経・・・」
涙を噛み殺そうとして、上手く喋れない。
錯綜する感情が、煩わしい。
それに、人前で感情を露にするのが久しぶりすぎる。
本当に、止め処ない。
「やっぱり、お前じゃないとダメだ・・・
馬鹿な真似して、ごめんな」
強引に抱き寄せられる。
腕で押し退けてやろうとして、そうすると俊はより一層力を込めてきた。
力比べ・・・じゃ、こいつに適うわけない。
「はなせっ」
肩口からようやっと顔を出して、喚くオレ。
「はなさない」
何を言ってんだ、コイツ・・・!!
もがこうとも、ちっとも俊のホールドは緩まない。
悔しい。
引き離せないことがじゃない。
まして、泣かされてしまったことにでもない。
ただ、こいつのこの行為を嬉しいと感じてしまっている自分が、堪らなく悔しい。
「なあ、オレがこうしてお前を抱きしめて、お前は何も感じないわけじゃないだろう?」
顔を見られてさえいないはずなのに、なんで・・・なんでそうやってオレの気持ちを見抜く。
「少しくらいは、嬉しいと思ってくれるだろう?オレ・・・わかるんだよ」
「どうして・・・どうして」
悔しくて、歯噛みして・・・オレは惨めに繰り返した。
「お前のことが、好きだからだよ」
そう言うと、やっとオレを解放する俊。
硬く握られた拳を、ぶつけてやろうと思った。
でも、思い切り振り被った拳は、俊の鼻先で止まってしまった。
俊は微動だにしなかった。
「ちくしょう・・・!!」
オレは頭を抱えて泣き崩れた。
俊は躊躇することなくオレの頭に触れる。
「殴られて当然なのに・・・お前って本当に」
その後はなんて言ったかわからなかった。
自分の無様な喚き声だけが耳に響いた。
最初の頃は相手に泣かされたこともあった。
でも、こんな風に感情を爆発させたのは、本当にこいつが初めてだった。
翌朝目が覚めたときは、俊もオレも裸で同じ布団に包まっていた。
・・・酒、を飲んだように記憶している。
オレは普段あまり飲まないが、俊が好きで部屋には結構な量の酒が置いてあるのだ。
――頭がガンガンする。
記憶がはっきりしないが、どうやらこの男といつも通り”寝て”しまったようだ。
「お前、あんな飲めたんだな」
目を擦りながら、俊が上体を持ち上げる。
何故か嬉しそうだ。
軽はずみな自分の行動を恥じる前に、・・・
波が、やってきた。
「うっ」
布団を跳ね除けて、パンツも履かずにトイレへ駆け込む。
そのまま便器に顔も突っ込まん勢いで、戻した。
「オレより飲んでたもんな、お前」
背中が暖かくなる。・・・あいつの手か。
どうやら鍵さえ掛けずに駆け込んでしまったらしい。
振り払おうとも思ったが、とてもその気力が沸かない。
もう一度戻す。
何も食べずに飲んだんだろう。
出てきたのは殆ど胃液だけで、喉を焼くような感覚。
最悪の、寝覚めだ。
オマケにまた一つ、こいつに醜態を晒してしまった。
吐くものがなくなってもまだ逆蠕動を続ける胃を擦りながら便器から顔を上げてみると、
俊も下着すらはかないでオレの後についてきたことがわかった。
「・・・かっこワル・・・」
自分に向けてか、俊に向けてか。
定めることもせずに放り投げた言葉だったが、俊は”確かに”と頷いた。
リビング兼寝室に戻って、取りあえず下着を履く。
「さんざんな付き合いしてきたんだってな」
俊が出し抜けに言う。
どうやらオレは本格的に酔っ払いだったようだ。
「・・・言ったの、オレ。今までのこと」
「おーう。洗いざらい聞けたよ。
・・・っていうよりは、途中から殆ど相槌しか打ってなかったけどな、オレは」
これだから、酒は控えていたというのに・・・
「マジで、最低・・・だ・・・」
「そんなこともないだろ。
お前のこと、もっとずっと理解できた。・・・それにな」
身投げしたい心境ですらあるオレに対し、俊は妙に艶やかな表情だった。
「・・・なんだよ」
「あんなに情熱的な夜は初めてだったぜ!」
耳まで沸騰したかのように熱くなった。
「お前から誘ってくれたの、思えば初めてだったよな・・・
声だって普段全然出さないのに、昨日は叫ぶ叫ぶ。隣から苦情が来ないかしんぱふがっ!!」
止まりもしないデリカシーゼロトーク。
昨日留めた筈の拳は、今躊躇なく俊の顔面に吸い込まれていった。
「・・・もうこれからお前とは飲まない」
昨日はオレから酒を呷り始めたような気がするが、もうそんなの関係ない。
俊は、何故か目を瞬かせていた。
「これからってことは、許してくれるのか?・・・裕」――これから。こいつとのこれから。
殆ど意識せずに、先の話なんてしてしまった。
あんなことのあった、後に。
「・・・許してなんか、ない。今でもムカついてる」
でも、ムカつけてる。
今までのように自暴自棄になったり、荒んだ気持ちになったりぜずに。
それはきっと・・・
「ムカつくから、お前はずっとこれからもタチでいさせてやる!次浮気したら、本当に殺してやる!」
きっと、こいつの言ったとおりだ。
・・・入れ込んでしまったんだ、いつの間にか。
実直で、オレとは正反対な・・・俊に。
俊はそんなオレの心を見透かしているかのように、大きく笑った。
「あんなカワイイ声で鳴いてくれるんだったら、タチだって全然悪かねぇよ!
浮気も出来ないほどになっ」
オレは鼻を鳴らしてそっぽを向いた。
「・・・メシ。やっと落ち着いてきたら、腹減った」
「おっ、オレもオレも。今日はオレが作るぜ」
パンツ一丁で台所へと向かう俊。
その後姿を見ながら、俊を信じよう。
そう、思った。
昨日あいつはオレのことを新しく知ったと言った。
でもそれはオレだって同じだった。
鈍感なように見えて、案外鋭いこともわかったこいつ。
言わなくてもわかるんだろう?
なら、教えてやるもんか。
――”お前に惚れた”、なんてな。