「・・・もう、別れよう?」
唐突だった。
ある霧雨の日、何時もの様に俺の部屋で会い、何時もの様に取り乱した俺を見て、あいつは突然そう言った。
「なに、言ってんの・・・」
思ったことがそのまま口を突いて出た。
本当に、何を言っているか理解出来なかったから。
俺は絶望的な顔になっていただろう。
でも、俺の顔さえ見ずにそんな科白を吐くあいつには、何も見えちゃいない。
俺の顔は勿論、本当に何も。
その科白が、何を齎すかも。
「だって俺、お前と居てもお前を苦しめるだけだから・・・」
「・・・あ、あ」
言葉が上手く出ない。
だってそんなお前の馬鹿げた言葉に対する回答なんて、今までに何回もしてきた。そうだろ?
じゃあ俺を放って置けば、全てが解決すると?この状況を作り出すのに加担した当のお前は、唯逃げ出すだけで?
答えは否。
そして幾ら考えるのが苦手なお前でも、そんな事は解っている筈。
解らない訳が無い。
詰まり、お前が言っている事の真意は・・・
「・・・ッ!面倒臭くなったんだろ・・・?要は、俺と関わる事が」
自分で言ってみても、虫唾が奔る。
人間の思考とは思えない。そんな事。
否定してくれ。頼むから、違うと言ってくれ。
「・・・・・・・・・そう、なのかも知れない・・・俺、最低な人間・・・」
俺に言われて初めて気付いた、とでも云う様子。
本気で落ち込むこの男。
それが演技なのか、そうでは無いのか・・・
判る訳が無いし、既にそんな事は如何でも良かった。
「うあ、あああああっ!!」
殴り掛かりたかった。憤りなんて言葉で表現出来るものじゃない。
・・・衝動。それも抑えられない。
しかし残り少ない理性は懸命に俺に訴える。
こいつを殴って如何なる?世界で唯一人、俺を助けてくれる可能性を持つ人間。
殴ったって見捨てられる危険が増えるだけ。そうすれば、本当にこの怒りは行き所を失う。
後は、自壊するだけ・・・そんなの、厭だ・・・厭だ!
「・・・ぐっ!・・・うっ!」
「やめて!やめてよ!」
捌け口を求めた衝動は、行き先を失い・・・向かうのは、当然一つ。
右腕を掴まれて動きを止めた俺は、それでようやく自分が何をしているかに気付く。
俺の左腕は、掻き毟った出血と腫れで真っ赤だった。
直後、視界が滲む。
痛みから来るものじゃないのは解ってる。
でも、唯それだけ。感情から出る涙とは解っていても、一体どんな感情が俺に涙を流させると云うのか。
じんわりと痛みが伝う左手の所為で理性が戻ってくるけど、それでも判別のしようが無かった。
俺の腕にしがみ付くこいつも、泣いている。
如何して?
問い掛けたいのに、言葉が出ない。
こういう時に出るこいつの言葉は、何時だって俺を助けてくれるものじゃなかった。
もうこれ以上傷付きたくない、その本能が俺の言葉を縛る。
「・・・もう、こんなの見たくないんだよ!俺の所為で人がおかしくなる所なんて!!」
しかし訊いてもいないのに、こいつは吐き捨てた。
その物言いに、俺は身体を蹲めることで堪えようとした。
見たくないと、こいつは言う。
では、見えないところで俺がこうなるのは、知った事では無いと言うんだろうか。
こいつの言う事に、俺の疑問は絶えない。
しかし、そういった俺の疑問に明快な答えが返ってきた事なんて一度も無かった。
今回だってそう。訊かずとも解る。
疑問と不満だけが俺の中で増殖する。それを止める手立ては、俺自身にはもう何一つ残されてない。
だからおかしくなるんだ。
腕にしがみ付いた奴を振り払うと、俺は自室を飛び出し、家をも飛び出した。
素足に、部屋着で、雨の中を走った。
雨は弱い筈なのに、一滴一滴が矢の様な鋭い冷気を以って俺に襲い掛かる。
何よりも痛むのは足。
コンクリートを素足で走るから痛いのか、その冷たさを痛覚を通して体感しているのか。
どちらにしても、余りの痛みに長くは走れなかった。
ヘタヘタと電信柱に寄り掛かり、崩れ落ちるようにしゃがみ込む。
そうすると、痛みに代わって体の芯まで震わす寒気が襲ってきた。
カチカチと歯が鳴る。
俺はきっと傍から見たら不審者そのものだろう。
でも、誰にも声を掛けられないのは、無意識に走っているつもりでも、人気の無い方へと向かっていたんだろう。
辺りには誰も居ない。
こんな状態になっても、人目を気にしていた?
まるで、狂った男を「演じて」、あいつに助けを「求めてる」みたいだ。
・・・解ってる。
みたい、では無く、その通りだと。
だから、こんなにも惨めな気持ちなんだと。
終わってる、俺・・・
またも涙が溢れてきた。
情けない、愚かしい、気持ち悪い・・・
最早その涙さえ、あいつに助けて貰う為の演技であるような気がしてきて。
俺は歯を食いしばってそれを留めようとしたけど、それさえ適わない。
豚の鳴き声のように情けない嗚咽を漏らしながら、俺は蹲った。
頬を伝う熱いものが、余計に身体を冷えて感じさせた。
ちょっと前までなら、あいつはこんな風になった人間を放って置くような奴じゃないと、俺は理屈も無く信じ込んでいた。
でも、今は解らない。
こんな俺を面倒に感じて、もう自分の家に帰ったかも知れない。
だったら俺、何してるんだ・・・
如何したらいいんだ・・・
・・・・・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・・・・
死ぬ、このままじゃ、間違いなく。
寒さに限界を覚えた俺は、情けないもいいことにのろのろと家に帰ることにした。
歩きながらも、涙は決して止まる事は無かったから、それを殺そうと必死だった。
「なにやってんだよ!?」
家に着く一つ前の曲がり角。後ろからあいつの声がする。
ゆっくりと振り返る。
傘も差さないで、自転車で俺の事を探していたのが、解る。
また、涙が出る。
「・・・ごめん・・・ごめんよ・・・」
そう言ってあいつは自分の上着を俺の肩に被せる。
暖かい。涙が止まらない。
堪らなくなって立ち止まってしまった。
「・・・風邪、引かせちゃうから・・・家、帰ろう?」
そう言って俺の手を引く。
その手もまた、暖かかった。
今目の前に居るこいつが、何を考えているのか、もう何も解らない。
それなのに、こいつの手はこんなにも暖かい。
当たり前だと思っていたものが裏切られるのは喩えようも無い恐怖であって。
それに押し潰されるのを懼れたんだと思う。
・・・俺は縋りつくように抱き付く。文字通り、本当に。
そんな俺の頭を、あいつは優しく抱き留める。
押し潰すような恐怖を与えるのはこいつな筈なのに・・・
それなのに俺はこいつの体温に安心させられる。
こいつにしかその恐怖を和らげて貰うことが出来ない。
何処で間違えたんだろう・・・
何がいけなかったんだろう・・・
俺は、こいつを好きなんだろうか。
こいつは、俺を好きなんだろうか。
俺たちの、歪で、奇妙な、関係は続く。
出口を見ないまま、今日も・・・続く。