毎日当然のように続いていることは、不意に永遠に失われる危険性を孕んでいる。

俺は、そのことに気付かないで、当然のように続く日常に慣れてしまう。

それは、とても・・・とても恐ろしい事だったのに。


















「話が、あるんだけど・・・」

ベッドから起き上がると、孝(たかし)は唐突にこんなことを言った。

「別れよう、俺たち」

「え?」

意味が、解らなかった。

今の今まで、ベッドの上で俺のことを可愛いって、好きだって言ってたじゃないか、あんなに。

「何言ってるの、いきなり」

「ずっと言おうと思ってたんだ・・・」

俺は、ただ孝の背中を見つめるだけだった。

こんな別れ話の切り出し方なんて、ドラマの中だけだと思っていた。

でも、冗談じゃないことをあいつの口調が厭と言うほど物語る。

それなのに、俺は哀れな女を演じる女優と、同じようなセリフを辿った。

「冗談でしょ?」

乾いた笑声を上げたのは、一緒に孝が笑ってくれる事を僅かにでも期待していたからかもしれない。

「本気だ」

その時、孝は初めて振り返って俺の目を見た。

その真剣さは、俺を取り乱させるのに十分だったと思う。

でも、俺は取り乱す事も、目を逸らす事も出来ずに、ただその目を見つめ返した。

手はじっとりと汗で湿っていた。

そして、先に目を逸らしたのは孝の方だった。

「・・・悪い、則之(のりゆき)・・・」

ノリ、じゃなくて則之・・・

そう呼ばれたのは、久し振りで。

・・・本当に久し振りで、俺は泣きたくなった。

胸が詰まる、まさにそんな感覚なのに。

涙は一滴すらも出ない。

つい一週間前、孝と見たドラマ・・・

有り触れた悲恋モノ。

あんなもので、恥ずかしいくらい泣いたって言うのに。

「・・・・・・」

「・・・・・・」

理由を訊くべきだ。

なのに、言葉が出ない。

「・・・あのな」

「やめて!!」

孝が沈黙を破って口を開いた時、俺は自分でも驚くくらい大きな声でそれを遮った。

・・・今解った。・・・怖い、聞きたくないんだ、俺を捨てる理由。

「俺のこと・・・」

捨てないで。

そう出かかった言葉を飲み込んだ。

それを拒否されたら俺は、果たしてどれくらい惨めな男になるんだろう。

だからって、どうしたらいいんだ。

いつも、一緒に居て、それが当たり前だった。

小学生や中学生の時、ただの同級生だった頃から一緒に居た。

高校生になって、付き合うようになってからは、もっと。

高校を卒業してからは、孝と一緒に借りたこの部屋で、もっとずっと一緒にやってきた。

俺たちは男同士だった。

でも、一緒に居て、身体を重ねて、抱き合って・・・

そういうことをするのに全然違和感を感じることはなかった。

だって、いつからそうしていたのかなんて覚えてないし、それがもう、当然になっていたから。

俺には、回りの男友達の女に対する必死さの方が、寧ろ理解出来ないで、異常に思えた。

孝も・・・きっとそうなんだろう、そう思ってくれてるんだろうって思っていた。

今思えば、それは希望だったのかもしれない、そう在って欲しいという。

だから俺は、周りの男の全てが女のことを話すようになってからは、必死に孝に甘えた。

孝だけは解ってくれる、孝だけは俺と同じだって・・・

なのに、今、こうして俺は決別を迫られている。

「・・・ノリ・・・」

「触るなっ!!」

俯く俺の頭を、撫でようとしたんだろう。

この時、初めて怒りが沸いた。

少し前まで、されるのが大好きな筈だったのに。

差し出された孝の手を、音が鳴るほど強く打ち払った。

そういえば、小さい頃からずっと一緒に居たのに、孝と喧嘩なんて、殆どしたことがなかった。

手を上げた事なんて、一度も。

俺に叩かれた手を庇う孝を見て、急に悲しい気持ちになる。

涙が、出た。

「・・・ごめん、孝・・・」

声が上擦る。

こうなると、もう止らなかった。

「う・・・ううぁ・・・」

声を殺そうとしても殺しきれず、

聞くに堪えない惨めな泣き声を上げてしまう。

そんな自分がまた一段と惨めで、泣きたくなる。

「なんで・・・ノリが謝るんだ・・・」

孝の声が震えている。

泣いてる・・・?

顔を上げると、確かに孝は泣いていた。

表情を崩さず、それでも拳を握り締めて。

・・・信じられない、孝が泣いてる・・・

温厚・・・というよりは、感情の起伏が少ない孝は、

怒るところは勿論、泣いているところなんて、一度も見たことがない。

これだけ長く一緒に居て、本当に一度も。

俺はベッドから立ち上がって、孝の頬の涙を拭いてあげたかった。

なのに、それが出来ない・・・どうしても、出来ない。

伸ばしかけた腕を、俺はもう一方の腕で抑え付けた。

「・・・思えばさ、俺、甘えてばっかだったもんね・・・」

そうだ・・・

孝が文句を言わないのをいいことに色々無理を言ってきた気がする。

初めて見る孝の泣いている姿は、俺にとって直視出来るものじゃなく、窓の外に目を遣りながら話し続けた。

「孝が友達と遊んだら、辛く当たった事もあるよね・・・俺には何も言わないのに」

「あ、この部屋の内装だってもっとシンプルなのがいいって言ってたのに・・・俺が無理言って通しちゃったんだ」

「もっと痩せた方がいいとか・・・偉そうなことも言ったことあるし」

孝と喧嘩にならないのは、孝が折れてくれるから、だったんだ・・・

馬鹿だ・・・今更気付いて。

でも・・・だからこそ怖かった。

依存していってしまう自分。そして・・・俺を縛らない孝は、もしかしたら本当は俺のこと・・・

そんな不安を掻き消したくて、俺はさらに孝に甘えた。

「・・・本当、馬鹿だな、俺って・・・」

自嘲すら出来る。

「俺は、そんなノリが好きだった」

「え・・・」

「自己主張が苦手な俺は、お前に引っ張っていってもらうのが心地良かった。
でも、駄目なんだ、もう」

なにが、駄目なんだろう。

耳を塞ぎたかった。

「俺は・・・結婚する。縁談も進んでるんだ・・・内緒にしてて、悪かった」

もう、孝は泣いてはいなかった。

俺は、一人現実に置いていかれた様な心地になった。

今、目の前にいる孝に触れられそうもない。

途方もなく、いつも触れていたあいつが、遠い。

この感覚が、夢じゃなくてなんだって言うんだ。

それなのに、俺の口は妙に現実感を帯びた事を口走る。

「好きなの、その相手の女の人のこと」

「ああ」

躊躇いがなかったことに、俺の胸は痛んだ。

俺とどっちが?

そんなことを訊いたって、無駄だ。

いや、訊けやしない、俺には。

「孝・・・最低だね、お前って」

「わかってる・・・すまない」

これ以上罵倒しても、きっと孝の気持ちが楽になるだけだ。

それに、・・・虚しい。

決して孝の為でなく、俺はそれ以上孝を責めなかった。

こんな俺は、捨てられて当然なのかもしれない。

「・・・俺、親に俺の子どもを見せてやりたいんだ」

「・・・そう」

それはそんなに大事なことなの?

そう言うのは、きっと俺の価値観の押し付けなんだろう。

「・・・ノリ、俺、本当は、お前と・・・・・・・・・」

そう言い掛けて、孝は口を噤んだ。

それはきっと俺の為に。

こういう奴だから、俺は甘えていた、いつまでも。

「いいよ、言わなくて」

「・・・ノリ」

「孝が俺に意見を通そうとするんだもん、よっぽど・・・」

「・・・・・・・」

「・・・よっぽど、好きなんだろうね、その女の人のことが」

俺は、辛うじて笑えていた・・・と、思う。

孝は、目を逸らした。

「・・・・・・明日には、荷物纏めて出て行くよ」

そう言って、孝が部屋を出て行こうとした。

俺は、弾かれた様にベッドから離れ、孝の腕を掴んだ。

「・・・ノリ?・・・!」

首を抱きこんで、殆ど無理やり。

俺は孝にキスをした。

孝は、反抗しようとはしなかった。

いつもの様に、俺の全てを受け入れるように。

それが、何より哀しくて・・・

滲んだ涙が零れ落ちる前に、俺は唇を離して後ろを向いた。

沈黙。

そして・・・ドアノブに手を掛ける音。

俺は、ただ立ち尽くしていた。

終わるんだな、これで。

「則之・・・俺、お前のこと・・・愛してるよ」

そして、孝は部屋を出た。

別れ際に、今までに一度も言われた事のない言葉を遣う・・・

「・・・卑怯だ、そんなの・・・」

それでも、俺は孝が好きだった。

だから・・・俺は、ここで暮らしていく事なんて、出来ない。

この部屋は・・・孝が居なきゃ、駄目なんだ。

思い立ったが早く、俺は最低限の荷物を纏めて部屋を出ることにした。

一枚、置手紙を残して。

そこには何を書いても足りないと思うし、また、何も書くことがないようにも思えた。

それでも、手は勝手に動いたのだ。

書くべきことが決まっていたかのように。

『ありがとう』

それ以上は、何も書けなかった。

インクが滲んだ。

また、泣いていてるのか、俺・・・

俺・・・こんなに好きだったんだな・・・孝のこと・・・

好きだって、思っていたはずなのに。

もっともっと好きなんだって、今になってわかる・・・

もし、なんて言ったらキリがないのはわかってる。

でも・・・もう少しだけ・・・

孝の好きな俺に、成りたかった・・・

置手紙を二つに折ると、それをテーブルの真ん中に置いて俺は部屋を後にした。

















俺は、馬鹿だ。

こうやって、後悔ばかりする。

いつも取り返しがつかなくなってから、ああすれば良かったって。

大事なものほど、壊れやすいことも知らずに。

俺は・・・変わりたい。

本当の意味で。

だから、孝のことは忘れない。

抱えて生きていくことは辛いけど・・・それでも忘れない。

そして、いつか自分に誇れる自分に成れたら・・・

その時は、孝に逢いに行ってみよう。

孝を大事にしてくれる奥さんに、感謝しよう。

二人の間に出来た子どもを、笑顔で撫でてあげよう。

そして・・・その時には、ちゃんと、この口から孝に言おう。

ありがとう、と。

そんな自分に、成りたい。

いつか、きっと。






だから、その時まで・・・

さよなら、孝。





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