あいつと付き合い始めた頃、妙に俺は怯えていた。
・・・あいつの中での、俺の存在。
俺は、大樹に必要とされているのか。
拒絶された時の悲しみは、根深く残っていたから。
「居なくなったら、ってどういうこと?まーくん」
俺の質問を深い意味で捉えなかったらしく、きょとんとした顔で聞きなおしてくる大樹。
「例えば・・・事故とかで俺が死んじゃったりしたらさ」
言ってから、後悔した。
大樹は目に見えて表情を変えて怒った。
「冗談でも、言っていいことじゃないよ!お、俺、そんなの考えられない!」
目に涙を溜めて怒る大樹。
「まーくんが居なくなったらなんて、意地悪なこと言うなよ・・・その時は、俺も生きちゃ・・・」
「ごめん、言わなくていいよ。・・・変なこと言って、悪かったよ」
その言葉を聞いて、安心している俺は、きっと最低な男。
でも、それでも訊かずにはいられなかった。怖くて、怖くて。
俺を安心させてくれる何かが、常にほしかった。
そして、俺は大樹の言葉にしがみ付いてしまった・・・
それを裏切られた時に、どんなことが待っているかも知らずに。
なんであの時、考えなかった。
それは、信じたいっていう希望だったって。
それは、大樹の吐いた、あいつなりの優しい嘘だったのかも知れないって。
・・・俺は、大馬鹿者だ。
「・・・・・・・・・?ここ・・・どこ」
見覚えのない白い、天井。鈍く光る蛍光灯。
身体を起こそうとして、左腕に痛みが奔る。
「痛っ・・・!」
左手首に厚く巻かれた包帯。
思い出した、俺、俺は・・・
・・・・・・・・・
そうか、ここは病院・・・の、個室、か・・・
「よっ、これまた、世界中の不幸を背負ってます、って顔してるわね」
癇に障る挨拶、妙に快濶な声。・・・切れ長の、目。
「・・・・・・許斐さん・・・・・・?」
ぼーっとする頭で、なんとか判別したかしないか位のタイミング。
「コラッ!余計なことは言うんじゃない」
許斐さんが頭をばしっと頭を叩かれる。
後ろには、白髪交じりの、利発そうな・・・いかにもドクター、という感じの長身の男の人が立っている。
「いたっ。何よ、私が居なかったら野木くんは・・・」
そう言い掛けて、再び頭を叩かれる許斐さん。
「もう絵里は下がっていなさい。全く」
ふん、と鼻を鳴らし、去っていく許斐さん。
ゴホン、と咳払いをすると、両手を白衣に突っ込んでこっちに向き直る男の人。
「うちの娘が済まなかったね」
え?娘?
ぼーっとした頭がその一言で現実に引き戻された。
「許斐さんの・・・お父さん?」
「ああ、そうだよ。この病院・・・精神科病院なんだが、ここの経営者兼医者をしている。
・・・野木くんの話は、良く娘から伺っていた」
「?俺のことを・・・ですか」
仲が特に良かったわけでもない。
そんな俺の何を、許斐さんが父親に話すというのか。
「娘は、小さい頃からよく私の仕事を手伝ってくれていてね。
少しなら解かるんだよ・・・そういった、傾向の人がね」
それが、俺だったってわけか・・・
そういうわけがあったんだな・・・
許斐さんが俺に近付いて来たわけは。
「悪く思わないでほしい。娘は、君のことを単純に心配する気持ちがあって、君に接していたんだ。
現に、君は娘に救われた。発見してすぐの止血も、娘が施した」
悪く、とは違うと思う。
驚いただけだ。
「少し、許斐さんとお話させてもらってもいいですか」
話してみよう。
そう、思った。
先生・・・許斐さんのお父さんは席を外してくれて、
許斐さんと二人きりで話す場を与えてくれた。
許斐さんはいつも通りの表情で、パイプ椅子に腰掛けていた。
呼んでおきながら、俺は自分から口を開けずにいた。
許斐さんは、俺が何をしたのかを知っている。
「左手首の傷」
僅かな沈黙を打ち破った許斐さんの声は、やはりいつも通りのものだった。
「左手首の傷、そんなに深くないそうよ。失神したのは自分の血を見たからだろう、って」
いきなり核心を突くのは彼女らしく、俺はそこに少し安堵する。
「そう、か・・・許斐さんにはみっともないトコ、見せちゃった・・・かな」
「そうね」
にべもなく言う。
俺は少し苦笑してしまう。
「第一発見者が私で良かったわね。
直接ここに運んだから、自殺未遂なんてことが公にならないで済んだし」
「・・・そういえば、うちのお風呂場で切ったのに・・・なんで許斐さんが見つけてくれたの?」
「野木君の様子がおかしかったのが気になって、
野木君が帰った後にサークルの人に住所聞いて、君んちに訪ねたのよ」
「・・・俺、そんなに変だったかな」
「元気が過ぎたのよ。今まで沈んでいた人が、急に訳もなく元気になるのって、余り良いことじゃないの」
「そうなんだ・・・」
本当に大した人だ、と思った。
許斐さんが涼しい目の奥で、何を考えていたのか、少し解かったような気がした。
「でも俺、玄関には鍵掛けておいた筈なんだけど」
「ああ、明かりが点いてるのに呼び鈴に応えないから、窓から上がらせてもらったの」
俺が手首を切ったなんて解かる筈もないのに、そこまでするものだろうか。
もしかしたら、許斐さんは俺と同じ様な人を、何人も見てきて、同じ様に救ってきたのかも知れない。
「凄いね、許斐さんは」
自然と思った言葉が口を突いて出た。
「そう、凄いのよ」
当然のように言い放つ許斐さんは、やはり大物なのかも知れない。
「でも、野木君の意思で助けてほしいってのがあったら、もうちょっと違うやり方もあったのに」
「あ、じゃあ許斐さんに貰った連絡先って・・・」
「そう、この病院の電話番号」
あんな前から許斐さんには解かっていたのか。
俺が、何かに対して深く悩んでることに。
「・・・・・・・・・・・・」
「・・・・・・・・・・・・」
「・・・・・・訊かないの?・・・理由」
許斐さんは、足を組み直した。
「・・・言いたいの?」
言葉に詰まった。
「・・・言いたいっていうか、ここまでしてもらって・・・言わないのも失礼かな、って」
「変よ、それ」
「え?」
何が、と問うより先に、許斐さんは答える。
「私、野木くんが”そんなこと”した訳聞いたって、別に何の得もないもの。
失礼に当たる事なんて何もないじゃない」
はっ、とする。
俺が今理由をぶちまけたって、それは許斐さんに対する押し付けでしかないことに。
確かに、俺は言いたかっただけなのかも知れない。
自分勝手に。
「またそんな顔して。
聞きたくない訳じゃないわよ。野木くんが話して苦痛にならないなら、私にも聞く権利くらいはあると思うし」
俯きかけた顔をぐいっと持ち上げられた。
「許斐さん・・・」
今まで許斐さんを誤解していたことに気付く。
彼女が強引な時、それは優しさを隠そうとしていた時じゃないか。
「うだうだしてるの、嫌いなの。言うの?言わないの?」
許斐さんなら。
今まで誰にも言えなかったものを・・・