「・・・座って、今ちょっと汚いけど」
当然食べ散らかしたままの俺の部屋。
少し、その光景が侘しかった。
大樹は、俺の部屋に入るなりまた泣いてしまった。
変わらない、あの時のままだ、そう言って。
俺はそれは違うと思った。
変わってきた。俺も、俺を取り巻く環境も。
大樹が居なくなってから、ずっと。
何も見てなかった大樹には、何も解かる筈、ない。
「お風呂、使う?」
大樹はブンブンと顔を横に振った。
俺は、何を話してるんだろう。
こんな、昨日会ったばかりの人間に接するような、他愛のない言葉を掛けて。
最初、大樹の顔を見ただけでぶっ倒れてしまったというのに。
ほんのさっき、目が合った沈黙の時間。
大樹と普通に言葉を交わすことなんて、二度と出来ないんじゃないかと思ったくらいなのに。
それでも、俺は大樹と話している。
「・・・さっきの女の子に。野木くんが会いに来るまで、野木くんに近寄らないで!って、凄い剣幕で言われた・・・
でも、一回君の顔見たら・・・少しでも早く話さないといけないって思って・・・」
項垂れて、大樹は言った。
ごめん、と独白する。
「いいよ。・・・俺も、大樹には会いたいと思ってたから」
嘘はない。
自分に言い聞かせるように、確認する。
「手、左手のこと・・・聞いた、あの女の子に」
俯いて歯を食いしばりながら、大樹は言った。
自分の二の腕を自分で抓って、無理にでも涙を止めようとしている。
「・・・そう」
抓るのを止めさせようと手に触ると、大樹は大袈裟にビクッと震えた。
「他にも・・・いっぱい聞いた」
それでも大樹は抓るのを止めず、続ける。
「もういいよ」
「男に襲われそうになったってことも・・・」
自分に呪いを掛けるように、続ける。
「いいって」
「俺の誕生日に、ケーキ買っててくれたことも・・・!」
俺の胃が、軋み始めた。
「やめて、頼むから」
「それを食べられなくて、凄く哀しい思いしたのも・・・!!」
聞きたくない、そんなことを言って、何になる。
「やめろ」
「俺、許斐さんって子に、殴られた・・・当然だ、人をこんなにしておいて・・・」
もう、厭だ!
「やめろって言ってんだろ!!!」
最後の方は声に成らずに掠れてしまう。
俺の声に大樹はもう一度大きく身体を震わせた。
「・・・・・・なら・・・・・・
・・・なら、どうして・・・会いに来てくれなかったの・・・・・・」
涙と、本音が一緒に漏れた。
そうだ、今更そんなこと並べられたって・・・
過ぎたことなんだ、大樹は何もしてくれなかった、どんなに呼んでも。
来るかも解からない場所でひたすら大樹を待ち続けて、
届くことのないメールアドレスにメールを送って、
繋がる筈のない電話に何回も掛け直して・・・
やっぱり大樹は応えてくれなかった。
その大樹が今、俺の感じてるものなんて解かる筈もない。
解かろうとさえ、してないかも知れない。
「・・・ごめん、俺・・・俺・・・」
聞かなければいけない。
でも、聞きたくない。
聞いた後に後悔することなんて、もう解かりきっていた。
「・・・俺、ずっと君を騙して・・・二股してたから・・・」
現実は、俺を責め立てることしか、しない。
「何・・・それ、どういう、意味」
きっと言葉そのままの意味。
だけど、もう一回訊いたのは、否定してほしかったから、大樹に。
「・・・・・・・・」
俯いて、何も言わない。
「え?何・・・それ。俺と、付き合ってる頃・・・他の人と付き合ってたって意味?え?」
胃が捻じ切れたんじゃないか。
ギリギリと締め付けるような鋭い痛みが内臓を嬲る。
俺は殆ど無意識のうちに片手で腹部を押さえていた。
押さえている手さえ、脂汗が滲んでいた。
大樹の、言ってることが、上手く理解出来ない。
「・・・そう」
また、一段と強く締め付けられる。
「なんで・・・どうして・・・」
独り言のように呟く俺。
しかし大樹は苦しそうに答える。
「・・・いつも悩んでた、このままでいいのか、って」
「俺と、付き合ってることを・・・?」
大樹は頷いた。
「その悩んでる中、短大に入って半年位した頃、同じ大学の女の子が俺に告白してくれた。
勿論、俺は大学じゃ付き合ってないことになってるから、なんだけど」
もう、俺は両手でお腹を抱えていた。
「最初は断った。まー・・・真幸くんが居たから。でも・・・その女の子が中々諦めてくれなくて」
聞かなきゃ、最後まで、ちゃんと。
「俺、その時、揺れた・・・俺みたいな奴に、こんなに言ってくれる女の子なんて、この先居ないんじゃないかって」
逃げ出したい。
「俺は・・・今まで真幸くんには一度も言えなかったけど・・・自分の子ども、自分の手で抱くのが、夢だった。
だから・・・」
「・・・付き合ったの、その子と・・・」
大樹はゆっくりと頷いた。
つまり・・・
「その子と、俺と・・・二人に嘘をついてた、ってわけ・・・か。あの時」
気付けなかった自分に怒りを通り越して惨めさを覚える。
もう、どうにかなりそうで。
「・・・俺のこと、棄てれば良かったのに、その女の子を選んだ時に」
止むを得ない事情があって、会えなかったんじゃないか、なんて、
心の隅で期待していたことに打ちのめされて今更気付く。
こいつは・・・なんで、そんな誰も彼もが傷付く選択をしたんだ・・・
「・・・出来なかった。何度言おうとしても・・・離れたくなかった・・・
滅茶苦茶なこと言ってるのは解かってる。でも・・・まーくんと離れられなかった・・・」
「じゃあそんな女と付き合わなきゃ良かったんだ!何言ってるんだよ!?
俺、おかしいこと言ってるのか?言ってないだろ!?」
「おかしいのは俺だよ、解かってるんだよ・・・・・・」
「解かって!ない!!」
いっそのこと、俺がおかしいんだって言ってほしかった。
認められてしまったら、この怒り、どこにもぶつけようがない。
正気じゃ、居られなくなる。
「ごめん・・・ごめんね・・・」
謝られてしまったら、尚更。
「・・・・・・今、その子は・・・どうしたの」
諦めに似た悲しみが、俺を襲っていた。
もう、これ以上何があるって言うんだ。
「・・・別れた・・・真幸くんと連絡を絶つ直前に・・・」
「なんで・・・!?」
「その女の子に、全然手を出せなかったから・・・キスも、手を繋ぐのも、出来なかった。・・・真幸くんの顔が浮かんで。
それで、その女の子が不審がって・・・問い詰められて・・・」
「言ったの、本当のことを」
「・・・うん・・・」
下手をしたら、殺されかねない嘘だと思う。
その女の子は、どれ位自尊心を傷付けられたんだろう。
「・・・最低だ、お前のしたことは」
「・・・俺も、そう思う・・・だから、その子と別れて、
その後何もなかったように真幸くんと付き合うことが・・・出来なかった」
「だから俺の許から消えたの」
「・・・そう・・・」
「そんなのに、何の意味があるんだよ!なんで俺に打ち明けなかったんだよ!」
「真幸くんを傷付けるのが・・・」
そう言い掛けて、大樹は頭を振った。
「・・・違う・・・自分のついた嘘の大きさを知るのが怖かった・・・
あの子に告げた時も、本当に取り乱して・・・
俺、真幸くんをそんな風にしたくなくて、俺の所為でそんな風になる真幸くんを見たくなくて・・・」
「お前が居なくなった俺が、どうなるかなんて考えなかったのかよ!
お前、自分勝手だ!全部自分がしたことで、その尻拭いさえしないで!」
責めても、責めても、大樹も俺も互いに傷付くだけなのは解かってる。
それでも、俺は罵らずにいられなかった。
大樹が空けた空白の時間は、そんなに軽いものじゃない。決して。
「それに、それならなんで今更俺のところに来て、今更本当のこと言うんだよ!
ずっとずっと、傷付いてきたのに、止めを刺してるだけだろ!」
もう一度会って、本当の事を聞きたい、そう思ったのは俺だ。
それでも、堪えられない。
「それなら、死んでも俺にばれない様に騙し続けてくれた方が、幸せだった。
俺の許から居なくなったのも!今になって本当の事を俺にぶちまけるのも!
俺の為なんかじゃない、自分の為にやってるだけ・・・うあ・・・!」
限界だった。
「まーくん!?」
俯いて聞いてるだけだった大樹が近寄ってきたが、それよりも早く俺は走り出す。
トイレ・・・は、間に合わない。
「うげッ・・・げほ!げほ」
台所の流しに向かって、嘔吐する。
今になって、汗でシャツがびったりと背中に張り付いていたことに気付く。
「まー・・・くん・・・」
後ろで、大樹が俺の背中に手をかざしているのが、解かった。
それでも、大樹は俺の背を撫でるようなことはしなかった。
「こんなに・・・しちゃった・・・
優しくて、可愛かったまーくんを、こんな風に・・・俺が」
「・・・嘘つき・・・」
すぐ後ろに居る大樹にも聞こえない声で、俺は吐き棄てた。
「え・・・?」
「なんでもない。もう平気だから」
やや強引に、居間の方へと大樹を促した。
嘔吐は少し俺を落ち着かせてくれた。
腹痛も和らいだ。
「・・・ねえ、大樹はどうしたいの・・・」
だから、少し落ち着いて考える事が出来た。
大樹は、結局何をしに俺のところに来たのか。
どうしたいの?その後に続く言葉。
言わないでも解かるだろ、大樹なら・・・
俺たちなら・・・
「・・・・・・解かんない・・・ただ・・・」
「・・・・・・・・・・・・」
「・・・会いたかった・・・・・・」
まだ、その言葉を嬉しいと思えてしまう俺自身が、情けなくて、悔しかった。
嘘だ!・・・そう叫びたいのに・・・叫んだっていい筈なのに・・・どうしても、出来ない。
何も言えずに、俺は唇を噛んだ。
「・・・あー!!駄目だ、こんなんじゃ!!!」
唐突に、大樹は大声を上げて、自分の頭を激しく叩いた。
蹲ったかと思うと、ばっと俺の方に向き直る大樹。
「俺、善人ぶってる。こんなことしておいて。やめる!ちゃんと言うよ」
「・・・何を?」
「俺は正直、もう一度まーくんとやり直したかった。
そのつもりで、会いに来た!
・・・でも、まーくんが俺のせいでこんなにボロボロになってるのを見て・・・
そんなの都合が良すぎる、って思った・・・
どうにかしたいのに、俺に何が出来るか、何をしていいのか、解からない・・・
俺はこんな勝手な人間だけど・・・でも、まーくんに対して、責任を取りたいって・・・
今、凄く強く思ってる」
勢いそのままに大樹は捲くし立てた。
思った事を本当に並べて言ってるみたいだった。
俺は戸惑った。
そんなの・・・
「そんなの、俺に言われたって・・・解からない・・・
何が本当で、何が嘘かも解からなくなってたのに・・・
でも、少なくても・・・」
そう、俺は・・・
「大樹とは付き合えない。俺は、大樹が居なくなってから、裏切られる怖さを考えなかった日はない。
誰も信じられなくなった。あの怖さを、もう一回味わうくらいなら・・・死んだ方がいい。誰も信じない方がいい。
それくらい、怖かった」
もう、裏切られたくない。
痛いのは厭なんだ。
「・・・俺に・・・何か出来ることは・・・ないの・・・?」
掠れた声で、大樹が言った。
目には涙が溜まっていた。
胸が苦しくなった。
俺は、裏切られたくない。
でも・・・大樹の悲しそうな顔に、こんなに胸が苦しくなる。
「・・・違う!」
また唐突に、大樹は大声を上げた。
「まーくんに聞くんじゃなくて、俺が探さないと駄目なんだ・・・!
付き合ってくれなんて、偉そうなこと言えないよ。
でも、俺に償わせてほしいんだ!今までのこと・・・」
「・・・大樹」
その声は震えてて、目は何処までも真剣で。
信じちゃいけない、そんな風に心は言うのに。
「何でもするから・・・
でも、何もしないで目の前から居なくなってほしいっていうのがまーくんの望みなら、俺は・・・!」
「やめて!!」
居なくなる、大樹がまた、俺の前から・・・
それを大樹の口から聞いた時、俺はどんなにそれを怖がっていたかが解かった。
「き、消えないで・・・そんなの・・・もうヤダ・・・やめて・・・」
大樹が居なくなった時のことが、甦って、涙が出る。
俺たちはどうするべきなのか、大樹に何をしてほしいのか、全然解からない。
でも・・・
またあの時のように、居なくなってしまうのは厭だ。
それだけは、絶対に。
「・・・俺、まだまーくんの近くに居て、いいの・・・」
違う。そう、なってしまった。縋るしかないように。
でも、俺は黙って、首を縦に振る。
ありがとう、と大樹は言った。
何回も、何回も。