「まーくん、今日はね、お菓子作ってきたんだ」
バスケットいっぱいのクッキーを抱えながら、また大樹はうちにやって来た。
ちょっと前までまるで掴めなかった大樹が、今はこんなにも近くに居る。
殆ど毎日のペースで、俺の家に顔を出している。それは年が明けようとも変わらなかった。
そして長居することはたまにあっても、決して泊まろうとすることはなかった。
自分から居座ることもしない。
本当に毎日、顔を見せに来ることが目的であるように。
見透かされている気がした。
俺の大きな不安も、どうしようもない自尊心も。
違う、確実に見透かされてる。大樹に解からない筈が、ないから。
自分の表情が曇っていくことに気付き、それを払うように質問する。
「いつも俺に会いに来てるけどさ、バイトはどうなってるの?」
大樹の持ってきた菓子に合わせて紅茶を淹れようとするけど、
大樹はそれすら保温瓶に詰めて持ってきていた。
こんなにマメな奴でもなかったんだけど・・・大樹は。
カップだけ用意する。
「ああ、今のバイト、深夜なんだよねえ、働くの。稼ぎも良いし、なにより・・・
まーくんに会う時間、作りたいからさ」
持ってきた紅茶を用意したカップに注ぎながら、大樹は言った。
何か、違う。
ここ数日、大樹とずっと顔を合わせてきて、この違和感を何度も感じた。
大樹は、こういう奴じゃなかった。
「・・・無理、してるでしょ」
そう、背伸びをしているような。
俺を壊さないように、壊さないようにと腫れ物のように慎重に扱う、態度。
自分を削ってまで、俺に合わせて。
大樹はそんな奴じゃなかった。
大樹は、もっと奔放で、とぼけていて、他人に深いところでは無関心で。
誰かに対して何かをしてあげるようなタイプじゃ、ない。
受身の姿勢が強かった。
それなのに。
「何を?ねえ、それよりさ、食べてみてよっ」
促されるままに、一口食べる。
美味しい。
もう一方の手には流し込む用に、紅茶を用意しておいたのに。
適当な大樹は、お菓子を作るのには向いてなかった。
分量と時間が大事な粉ものなんかは特に。
口から煙が漏れそうなほど粉っぽいクッキーを食べさせられたことは、未だに忘れられない。
今日、こんなに美味しいクッキーを作るのに、どれだけ真剣に時間を費やしたんだろう。
「・・・あんま、美味しくなかった?俺的には快心の出来だったんだけどなあ」
「ううん、うまいよ。・・・うまい」
「・・・えへへ」
媚びているような、気さえしてしまう。
こんな開けっぴろげの笑顔、いつでも無防備に見せる奴じゃなかった。
「・・・やっぱり、変だ」
「え!味・・・!?まさか焦げてたの入ってた?
焦げたのは全部どかしてきたつもりだったんだけどなあ」
大樹がどこまで真剣なのか、解からなかった。
でも、俺は表情を崩さないで言う。
「違うよ、変なのは、大樹」
「え?」
きょとんとした顔。
でも、作為的に見える。
大樹だって、解かってる筈だ、俺の言いたいことは。
「お前、こんな奴じゃなかっただろ。
俺の言ってる意味、解かるよな?」
俺の目を見て、逃れられない質問と解かったのか。
おどけた仕草をやめて、暫く黙ってから、
「・・・・・・・・・うん」
と、呟いた。
「俺に大樹の考えてることは、正直解からない。
解かったつもりになって、痛い目に遭うのも、やだし。
でも、きっと今の大樹は、本当の大樹じゃない」
大樹は、顔を顰めた。
「俺・・・も変だと思う、こんな俺」
「な、なんだよ、それ」
半眼を向けると、慌てて「違うよ、聞いて」と俺を制した。
「こんな風な自分、確かに俺も変だなって戸惑ってるんだよ。
でもさ・・・無理はしてないんだ。難しくて、俺にも良く解かんないけど、無理とは絶対に違うよ」
大樹が解からないことを、当然俺が解かる筈もなく。
「どういう意味?」
「”こうしたい”って思うことを、素直にしてるだけだから。
俺、今まで誰かをこんなに大事にしたいと思ったことがないから・・・だから、今の自分に戸惑ってるんだと思う。
まーくんにも、肩肘張ってるように見られるんだと思う」
解かんないよね?と、笑って言った。
「それは・・・今までの俺は大事にされてなかったってこと、だよな」
うーっ、と唸るけど、大樹はそれも認めた。
「俺が馬鹿だから、いけないんだよ。身近じゃなくなってから気付く・・・っていうか。
こんなに、こーんなに大事だったんだなあって」
それは、大樹だけじゃないと思った。
俺も、見落としていたものはたくさんあった。
でも。
「・・・今更、だよ・・・」
俺は、こんなことしか、言えない。
頭では解かっているのに、大樹を認められない。
また信じるなんて、出来ない。
今までの日々を、しょうがなかったで済ませることが、出来ない。
これがまた嘘だったら、俺は・・・何を支えにして立てばいいんだ。
「・・・本当、その通りだよね・・・ごめんなさい・・・」
本当に哀しげに謝る大樹の姿は、自己嫌悪を催させるのに十分だった。
堪らず、目を逸らす。
それでも、俺は、このちっぽけな俺を守らないわけには、いかない・・・
窓際から雨模様の外を見て思った。
雨の日は、嫌いじゃない。
出掛けたりするのは億劫にはなるけど、それとは別に。
シトシトと一定に注ぐ音はなんだか心を落ち着かせるし、その音は、静かだから。
雨と言えば、幸一に会ったあの日、雨に打たれたな。
でも、誰かが言っていた、「雨は厭なことを思い出す」。
俺は、特にそんなこともないみたいだった。
こんなことに気付いたのは、よくものを考えるようになってしまった、大樹と離れ離れになって以来だけど。
雨の夜、目的もなく、傘を差して出歩いたりもした。
・・・いや、目的がないなんて、嘘だな。
夜の道、雨の中哀しげに俺が歩いていれば・・・もしかしたら、大樹が助けに来てくれるかも知れない。
いや、それが大樹じゃなくたって、俺を助けてくれる人なら誰だって良かった。
そんな途方もなく浅はかな期待が、あった。
水溜りを踏みながら、たまに傘を閉じて雨水に打たれてみたり。
現実に、どんなに浸ろうと、俺の希望が叶うことなんて有り得なかったけど。
それでも、あいつはクリスマス、唐突に俺の前に現れた。
あいつの会いたいという意思―それが本当なら、だけど―、一つで。
笑える。
待っても、求めても。
自棄になっても、叫んでも。
何をしたって、俺は叶えられなかったのに。
理不尽だ。
・・・理不尽だけど・・・
そういうものなのかも知れない。
俺は、大樹に縋ってしまったから。だからきっと、こんな想いをする。
入れ込んでしまった方が負けなんだ。
もっと早く気付けていれば、とも思うけど。
きっと関係ない。
ヒトが気持ちをセーブ出来る生き物なら、そもそも誰かを好きになるなんて愚かな選択、しない。
少なくとも俺は、絶対にしない。
・・・こんなことを、考えてる時点で・・・
「・・・好き、なんだ・・・やっぱり・・・」
一人呟いて、後悔した。
思った以上に、悔しくて。
俺は唇を噛んだ。
こんな気持ち、いらない。失くなってしまえばいいのに・・・
その女が俺の前に現れたのも、大樹が現れたのと同じ様に、突然だった。
ドン、ドン、と、呼び鈴があるにも拘らず、激しく戸を叩く音。
戸に近付くと、聞いたこともない女の人の声で、すいません、と何回も叫んでいる。
ドアを開くと、やはり知らない女の人が佇んでいた。
俺と歳は変わらなさそうな、
少し垢抜けた、大学生の女の子といったところ。
結構可愛い顔をしてる。・・・怒気を孕んだその表情を除いては。
「どなたですか・・・――」
「あなた、野木真幸くんですか」
俺が訪ねようとするより先に女の人が口を開く。
初対面の人間に対して、取る態度じゃない。
少し、ムッとする。
「そうですけど、なんの用ですか」
顔に出さないようにするのが手一杯で、少し口調がざらついてしまった。
「あたし、古谷大樹くんと付き合ってた者です。そのことでお話しに来ました」
俺は、呆気に取られた顔をしたに違いない。
その意味を飲み込むのに、少し時間が掛かった。
「・・・大樹と、付き合ってた・・・?」
「そうです。ちょっと、お邪魔してもいいですか」
押し退ける勢いで、俺の部屋へと上がる。
俺は、それを制することさえ忘れていた。
これ以上、何があるって言うんだ・・・俺に・・・