その女の名前は、向井茜(むかいあかね)というらしい。
どっかと居間に座ると、間髪空けずに訊いて来た。
「単刀直入に言いますけど、古谷くんとはどういう関係なんですか?」
俺は出そうとしていた麦茶を取りこぼしそうになった。
「・・・どういうって・・・」
当然ながら、俺は詰まってしまう。
っていうか、今の大樹との関係がどういうものかなんて、正直俺自身もよく解からない。
「・・・友達、なのかな」
妥当な答えだと思ったけど、向井さんは反発した。
「単なる友達の関係で、週に6日も会ってらっしゃるんですか」
「・・・え?」
なんで、一週間に大樹と俺が会った数を把握してるんだ、この人。
「答えられないんですか?」
向井さんは重ねる。
「・・・大樹の後でもつけてたの・・・?・・・向井、さんは」
「質問してるのはあたしですっ!」
自分から名乗らない人に、そんな道理を云々される筋合いはないと思った。
「今は本当にただの友達ですよ」
しかし自分までそこに堕ちることはないと思い、答える。
「・・・”今”、は?」
向井さんは打ちのめされた表情になった。
でも、きっとそんな予想があったから、俺のところに乗り込んで来た筈だ。
「じゃあ、本当にあの時古谷くんが言ってた通り、男同士で付き合ってたのね・・・」
侮蔑が滲み出た、なんとも不快な口調だった。
「・・・あの時?」
「古谷くんが、あたしに別れ話を切り出した時のことよ」
初めて、向井さんは俺の質問に答える。
「・・・その当時の話や、向井さん自身のこと、俺も詳しく解かってないんですよ。食い違いがあるかも知れないですし、
聞かせてもらえませんか」
「・・・そうですね、解かりました」
向井さんは、語りだした。
大樹は向井さんと別れる時、俺という男と付き合っていたことを告げて、別れたらしい。
それから連絡を絶たれたのは、向井さんも同じ。
納得が出来ずに過ごしていたら、最近になって偶然に駅で大樹を見掛けて、後をつけて現住所を突き止めた。
その後大樹に直接会いに行ったけど、泣いて謝られることしかしなかったという。
――大樹からこの話は全く聞いていなかったので、俺は驚いた。
まだ納得がいかない向井さんは、その後も大樹の後をつけて、俺と大樹とが懇意にしていることを知って、
俺の家へと押し掛けてきた、というのが、大体の顛末。
向井さんの話は感情が多分に入っていて、要領を得るのが難しかったけど。
それに何故か、口調がとげとげしていた。
「・・・俺、に、どうして欲しいんですか?」
向井さんは、大樹が居なくなって生活が乱された俺と、もしかたら同じ思いをしてきたのかも知れない。
俺は沈んだ気持ちになってしまった。
この人も、きっと凄く辛かったんだろう、と。
・・・だけど、同時に、妙な親近感も沸いてしまった。
こんな思いをしているのは、俺だけだと思っていたから。
でも、それは次に発せられた向井さんの一言で、粉々に砕け散った。
「古谷くんを誘惑するの、やめてもらえませんか」
「・・・は?」
耳を疑った。
誘惑?何を言ってるんだ、この人は。
「古谷くんが進んで男同士の関係なんて持つ筈ないです。
・・・あなたですよね、古谷くんにそういうこと強制してるのは」
聞き間違いなんかじゃない。
それでも、何を言ってるのか、意味が解からなかった。
「俺だってつい最近まで連絡絶たれてたって言ったじゃないですか!
その後あいつが俺に会いに来たのは、俺の強制じゃなくてあいつの意思です」
「そもそもあなたが古谷くんとそういう関係にならなかったら、
古谷くんだってまた会いたいなんて思わなかった筈です!」
滅茶苦茶だ。
・・・だけど・・・その実、一理はある。
昔、俺から大樹に近付いたのは、事実だから。
「・・・過ぎたことはどうしようもない。つまり、向井さんが言いたいのは・・・
この先大樹との関係を断て、ってことですか」
「その方が、古谷くんの為です」
俺は嘆息した。
「じゃあ、俺じゃなくて大樹に言えばいい」
「言って駄目だったから!あなたのところに来たんです!!」
向井さんは激昂した。
妙に、気持ちがざわついた。
「・・・帰って下さい・・・」
「嫌です。あなたが古谷くんに会わないって約束してくれない限り・・・」
なんで、そんなことをこいつに誓わなきゃいけない・・・!
限界だった。
「・・・帰れ・・・」
「嫌です。帰りません」
切れた音が、した。
「帰れっ!!どいつもこいつも・・・!!もう散々なんだよ!!消えろ!!!!」
女は大きく震えた。
それでも、俺に負けない声で叫んだ。
「何よ!変態のくせに!!指図しないで!!」
頑として、帰ろうとしなかった。
俺は業を煮やして、女の襟首を鷲掴みにして、玄関まで引き摺った。
「やめて!放して!!」
何か喚いていたけど、そんなの関係ない。
ドアを開け放ってドン、と女を突き出す。
また侵入されることのないように、すぐにドアを閉め、鍵を掛ける。
「なんなんだ、なんなんだよ!!!」
手につくものを投げ、届く範囲のもの全てを殴り散らした。
止らない。
どうでも良かった、もう。
みんな、壊れてしまえ。
遠くに声がする。
俺を呼ぶ声が。
俺に、構わないで・・・!
「まーくん!」
「・・・・・・・・・・大樹、か」
暴れた後、泣き疲れて眠ってしまったらしい。
散らかったままの部屋の真ん中で、俺は寝ていた。
「どうしたの?なんでこんな散らかってるの?
呼んでも答えてくれないから、俺心配になっちゃって・・・窓から上がっちゃったよ・・・ごめん。
・・・そうだ、手、手首は?見せて!?」
大樹は慌てていた。
俺の手首を見て、そこに新しい傷がないことにほっと安心した様子。
・・・目に見える傷が、全てじゃないってこと、解からないよ、ね。
「・・・なんでもない、から」
大樹を振り払って、片付けを始める。
「なんでもないわけないじゃんかよ・・・俺が関係してるんだよね・・・?話してよ・・・」
片付けを手伝おうと、大樹が落ちた本を拾い始める。
その姿に、何故か酷く虚しさを感じた。
「・・・いいから、俺がやったんだから、手伝わなくて」
「やらせてよ。なんでもいいんだ、まーくんの力になれれば」
駄目だ、善意さえも鬱陶しく思ってしまう。
俺は、一体誰の為に、こんな惨めな気持ちを背負わなきゃいけない。
誰の為に・・・何の為に・・・
「話したくなければ、話したくなったときに話してくれればいいよ・・・俺、待ってるから」
お前の裏切った女が俺へと逆恨みの感情をもってやってきた。
そう、言ってしまえばいいのに。
でも、言えなかった。
あの女に屈してしまうような気がする、確かにそれもある。
ただ、それだけじゃない。
あの女が言っていたこと全部が、否定出来るわけじゃない。
「・・・大樹、お前・・・女の子のこと、まだ抱けるの・・・?」
大樹と付き合ってから、怖くて一回も訊けなかったことだった。
それが出来ないから、遠回しに、自分への愛情を確認することしか出来なかった。
俺が死んだらどうするの、とか、俺のことをどれくらい好きでいてくれてるの、とか。
そんな幼稚な、大樹を困らせるようなことばかり。
今、ようやく訊いてみて、未だに俺は訊くことを怖れているのが、解かった。
膝が、震える。
「・・・抱けない、なんて言っても、信じて貰えないと思う。
でも、俺は・・・真幸くんと以外は・・・無理だよ。離れてみて、気付いたんだよ」
嬉しい、と思ってしまった。
だからこそ、信じるわけにはいかない。
踏み躙られた時、どうなるかなんて解かってるから。
でも・・・
「・・・もし、それが本当だとしたら・・・俺は、お前が子どもを抱く夢を潰したって、ことだよね」
そう、抱ける、なんてことを言われるのも怖れたけど、抱けないなんて言われたら・・・
俺は、大樹の人生を大きく歪めた張本人なんだ。どっちにしたって・・・
あの女の、言う通りに。
「俺は、子どもとかもうどうでもいい。それよりも、まーくんに責任をとりたいから」
「・・・また、嘘・・・」
「嘘じゃないよ!・・・って、ごめん。そんな堂々言える立場じゃないけど。でも、本当なんだ。
それを伝える為なら俺は何だってするよ」
こんなこと、嬉しいって思ったら、後で傷付くのは俺なんだ・・・
予防線を張っておかないと、駄目なんだ・・・
「・・・嘘吐き・・・」
二回目に漏れた言葉に、大樹は反論することはなかった。
ただ、哀しそうな顔を浮かべただけで。
それが、堪らなく俺には辛かった。
俺は、どうすればいい・・・
教えてくれるなら、そんなの誰だっていい・・・