大樹は、次の日も俺の家へとやってきた。
「・・・今、平気?」
再会してからは、いつもこんな風におずおずと尋ねてから、うちに上がる。
「・・・平気」
「ありがとう、まーくん」
お礼を言われることも増えた。
当たり前じゃないってことを自分に戒めているかのようだった。
家に上がると、いつも大樹は決まって居間の同じところに座り込む。
俺は決まってそこに人一人分の間隔を空けて座り込む。
「・・・昨日は、本当、ゴメンね・・・これから何かされるようだったら・・・
こんなこと言える立場じゃないけど、俺に教えてね」
話す時、俺の顔を見ないで話すことも多くなった。
「あの人は、もう俺たちに関わらないんじゃないかな、昨日言ってた通り」
昨日の彼女の眼は、そう思わせるだけのものが篭っていた。
大樹を見る眼が、子どもが興味の失せた玩具にくれる一瞥そのものだった。
「・・・だと思うけど、念の為・・・に」
少し、大樹の口調が寂しげだったことに、胸がちくりと痛んだ。
「・・・向井さんは、いつもああいう風に癇癪を起こす人だったの?」
大樹が、向井さんの怒る様を見たときにそんなに動揺がなかったのを思い出して、訊いてみる。
許斐さんも、俺も、あの手の女は表面にそういうものを出さない人間だっていう意見で一致していた。
その割りに、普段からあんな彼女を見たことがないだろう大樹は落ち着いていた。
「ううん、全然。あんな茜ちゃん、初めて見た。喧嘩してるところも見たことないし」
やっぱり、と俺は頷いた。―声に出してやっぱり、とは言わなかったけど―
だからこそ、昨日の大樹は引っ掛かった。
「その割りに、落ち着いてたね、大樹」
「そ、それは・・・・・・・・・」
少し口篭る大樹。
「お、驚いたって言うより、がっかりしたからかな。あんな酷いことを平気で言う茜ちゃんにも、
そんな茜ちゃんに気付かなかった俺自身にも」
なんか・・・しっくり来ない。
「そう?俺はやっぱり驚くと思うけどな・・・今まであんなこと言うと思ってなかった子が、
突然掌返したようにあんな態度とったら」
「・・・ま、まあ、いいじゃん。・・・それより、ゴメンね」
大樹はまた謝ってきた。
「もういいって。向井さんのことで、大樹がそれ以上謝んなくていいよ」
大樹はブンブンと頭を振った。
「そうじゃなくて。あ、いやそれも含めてだけどさ。それだけじゃなくて。
前に、”なんで茜ちゃんに暴力振るったの”、なんて問い詰めるような真似しちゃって。
よく考えなくったって、まーくんが意味もなくそんなに怒ることなんかないって解かりそうなもんなのに。
俺・・・」
その事か。
でも、それは俺が意地になって大樹に理由を話さなかっただけなんだし、
それに・・・
「大樹は結局信じてくれてただろ。
一方的に俺が怒るようなことないって。俺は・・・それだけで十分救われた気持ちになったよ」
うっ、と大樹が苦しそうな顔をした。
・・・なんか、変だ、さっきからこいつ。
「・・・何?違うの?」
「・・・う・・・うぅ〜・・・」
呻き始める大樹。
・・・いつかも見たような、これ。
「なんだよ?」
「うが〜!やっぱり駄目だ!」
突拍子もなく大声を上げる大樹。
「また突然・・・なにが駄目なの」
「絶対言うなって口止めされてたけど・・・!やっぱり言う!
昨日のことは、全部絵里ちゃんの助言でやりました!」
「・・・は?」
えり・・・絵里・・・許斐絵里!?
「こ、許斐さんのこと?」
「・・・うん」
下の名前で”ちゃん”付けされても、一瞬ピンとこなかった。
「どういうこと?」
よく、意味が飲み込めなかった。
「五日前にいきなり知らない番号から電話が掛かってきて、出てみると絵里ちゃんだったの」
「ちょっと、待ってよ」
五日前・・・俺が許斐さんに学校で会って、向井さんのことを話した日。
もしかして・・・いや、でも。
「な、なんで許斐さんが大樹の番号知ってるんだよ」
「あの・・・俺の所為でまーくんが倒れちゃった時、連絡先を絵里ちゃんに渡してたから・・・」
そういえば、そうだった・・・
「それで、絵里ちゃんに・・・まーくんの登校日が過ぎたら、すぐに茜ちゃんを含めた三人で話し合えって言われて。
まーくんをなんとか出来るのは俺だけだって言ってくれて」
「許斐さんが・・・」
「その時に、茜ちゃんがまーくんにどんなことしてたかも教えて貰って。
すぐには信じられなかったけど、”三人で話し合えば解かることよ、馬鹿!”って言われて・・・
絵里ちゃんの言う通りだった」
そこまで、してくれてたなんて・・・
俺は、言葉も出なかった。
「だから、動揺がなかったのは、予め絵里ちゃんから事情を聞いてたからだったの。
まーくんが一方的に暴力振るったりするわけないって気付いたのも・・・
情けないんだけど絵里ちゃんの話聞いた後で。
まーくんの言う通りに、信じ切れてた訳じゃないんだ・・・ゴメンね」
そっか・・・
それで許斐さんのお陰なのに、それを言わないで自分だけ役得・・・ってのが出来なかったわけか。
「謝らないでいいよ。・・・素直に言ってくれて、良かった」
それはそれで、大樹が殊勝になってくれたことが嬉しかった。
やっぱり、以前の大樹からは想像も付かなかったけど。
でも、何より・・・
「許斐さんに・・・お世話に・・・なりっぱなしだな、本当・・・」
申し訳なさと、こういう気を遣わせてしまうかも知れないっていう風に考えなかった思慮の浅い自分に対する嫌気。
俺は・・・本当・・・子どもなんだなって、思う。
「・・・あのさ・・・そんな顔しないで・・・きっと絵里ちゃんはまーくんにそんな顔してほしくないから、
俺に”このことは言うな!”、って口止めしたんだと思う」
「・・・!」
「・・・だから・・・」
皆まで言わせるわけにはいかない。
「・・・うん、そうだよね・・・わかった」
その通りだ。
こんな俺を、許斐さんはいつでも叱り飛ばしてくれてた。
それにしても・・・
「許斐さんまでも”絵里ちゃん”呼ばわりなんて・・・」
「変かな?最初絵里ちゃんって呼んだ時、本人も電話越しに声引っ繰り返ってたし」
想像して、俺は少し吹き出した。
それを見て薄く笑んだかと思うと、大樹は急に真剣な顔になった。
「・・・ねえ・・・まーくん。絵里ちゃんはさ・・・もしかしたら・・・・・・」
唐突に切り出したかと思うと、言葉に詰まる大樹。
「・・・?もしかしたら、なに?」
「ううん、やっぱりいいや、なんでもない」
ふい、と視線を流す大樹。
妙に改まった態度が少し気になっただけで、
俺はこの時の大樹の言葉の意味を深く考えるようなことはしなかった。
よく考えれば、あれだけ話したりしておきながら、俺は許斐さんの携帯の番号すら知らなかった。
会おうにも大学は暫くないから・・・
どうしてもお礼を言いたかった俺は、大樹に番号を教えてもらい、その日の夜に電話した。
「はい」
「あ、許斐さん?野木だけど・・・ごめんね、夜中に」
「野木くん?どうやって私の番号・・・」
「大樹に訊いたんだよ。それで・・・お礼言いたくてさ」
電話越しにも聞こえる大きな溜息を吐く許斐さん。
「やっぱり喋ったのね・・・あのデカブツくん」
・・・怖い。
「あ〜・・・大樹はきっと、許斐さんのお陰だってのを言わないでいれなかったんだよ」
「わかってるわよ。小心なんだから。・・・で、どうだったの」
「向井さんがやっぱり大荒れしてね。思いっきり蔑まれたよ。誰があなた達変態に関わるもんか、って」
「あら、良かったじゃない。良い方向に進んだみたいね」
これだけ手を回してくれたのに、軽い物言いに俺は苦笑する。
「お陰様で・・・これからあの人の暴言を聞かないで済むと思ったら、どっと安心しちゃったよ。
ありがとう」
「・・・意外。もっと申し訳なさ気に謝られるかと思ったのに」
「そういう風にしたら、きっと許斐さんも心苦しいんじゃないかなって大樹が言ってたから」
ふ〜ん、と意味深に許斐さん。
「・・・古谷くんが、ねえ・・・」
「え?」
「なんでもない。用はそれだけ?」
「それだけって・・・」
「女の子にお礼をしたい時は、美味しい食事にでも誘うことね。それじゃ」
どこまで本気か解からない言葉で、素っ気無く電話を切る許斐さん。
・・・食事か・・・