仁美待ちを買って出た自分の浅はかさを後悔し始めた頃、急に背中を叩かれた。
ばちん、と小気味のいい音が響く。……半端じゃなく、痛い。
「よっ、お待たせ!……って、もうプール入っちゃったの?びちょびちょじゃない」
「……入ってねぇよ、お前が遅いせいでな」
「……!!なにこれじゃあ汗!?触っちゃったわよ、きったない!いやぁあ!きゃあああ」
 きーきー叫ぶ仁美にアッパーをかまし、マウントを取りたくなる衝動を、肩を震わせながら寸でのことで抑え込む。
「だ・れ・の・せ・い・でっ」
「わ、悪かったわよ。……でも乙女には色々あんのよ」
 振り返ると、仁美はセパレートの赤い三角ビキニの水着を着て麦藁帽をかぶっていた。……周りの目線を集めているのがわかる。
 色気づきやがって……それに、去年の水着と違う。水着なんか毎年替えるもんでもないだろうに。
 俺は中学生の時からずっと変わらない自分の青のペンギン柄の水着を摘まみながら言った。
「……毛の処理くらい、家で済ませてこいよな」
「そっちの色々じゃ、ないわよ!」
 すねを蹴り上げられ、鈍い音が鳴る。仁美の足にはしっかりと木製のヒールサンダルが装備されていた。
「ぐ、ぐお……っ。て、てめぇ……こんなに滝汗を掻いて待っていた俺に対して……この仕打ちか」
「年頃の女の子にセクハラ発言するからでしょ。ほら、行くわよ」
 なら、振る舞いも年頃の女の子相応であってほしいものだ。
 さりげなく押し付けられた仁美の荷物とともに、足を庇いながら目の前の真っ赤な尻を追うのだった。

  背の高い英一と風船のような体型の喜助の二人組みは遠目からでも目立つため、すぐに見つけることが出来た。どうやら日よけのあるスペースを確保できたようだ。
「お待たせっ」
 明るく言う仁美に英一が薄く笑った。
「俺たちは別にいいけど。そっちの汗だくのクマさんには謝ったの?」
「あったりまえでしょ」
「なにが当たり前だ。お前に貰ったのは謝意どころか、背中のモミジ跡とすね蹴りだけだ。あと、英一はクマって言うな」
 二人分の荷物をシートの上にどさっと置くと、背中を向けて何やら取り組んでいた喜好が振り向いた。
「ぶはっ!あ、ひぃちゃん。汗だくだねぇ」
 どうやら浮き輪を膨らませていたようだ。喜好は泳ぐの”も”苦手なのだ。
「無駄口を叩いてる間に空気が抜けていくわけだが」
「あぁっ」
 慌てて浮き輪の空気口をくわえ込む喜好。本当に要領の悪い。
「代わろうか?」
 英一がそう言うと、今度は空気口から口を離さずに喜好が首を振った。
「このくらいやらさなきゃ、なーんも出来ない箱入りになっちまうぞ」
 アニキ肌なのはいいが、英一は喜好の世話を焼きすぎる。
 俺がそう言うと、英一は憮然とした。
「ふん、喜好のこと考えてるみたいに言うじゃないか」
「別に、俺は」
「はーい、ストップストップ。昔っからいつも同じネタで喧嘩してて、飽きないのかしら?」
 ぐむっ。仁美に言われて俺と英一は同時に唸った。
 確かに、小さい頃からこいつと衝突するのは決まって喜好のことだった。英一も思うところがあるのか、それ以上は突っかかってこなかった。
「できたー!この位パンパンなら、大丈夫だよね、ひぃちゃん!」
 嬉々として浮き輪を見せてくる喜好だが、表面は梅干のようにシオシオで明らかに空気が足りなかった。
「これじゃ沈むぞ、お前」
「うぇー、もっとかぁ……肺がひーひーだよ〜」
 ふん、情けない奴だ。
「なんだ?じゃあ代わってやろうか?」
 思ったことをそのまま顔に出して英一と同じセリフを意地悪く言うと、喜好は頬を膨らませて自分でやる、と浮き輪をひったくった。
「さて。先、泳いできたら?あたしが喜好見てるから。これからUVケアしないといけないしね」
「そうするか、英一」
「そうだな。仁美、喜好から眼を離すなよ」
 これじゃ、兄弟どころか父親だな。面倒くさいので口には出さなかったが。

  泳ぎが得意な英一はいつも五十メートルプールに入り浸る。足がつかない大人用のプールであるために人が少なく、泳ぎまくりたい人間にはうってつけだ。
 だが、今日の英一はなぜかただ涼みに来ただけの俺が愛顧する、流れるプールに同伴してきた。
 どうせいつも通りただ流されるだけなのだが、折角なので隣にいる同じくただ流されるだけの英一に話題を振ってみることにした。
「……学校、どうなんだよ。楽しいか?」
「そうだな。うちは二年になってもクラス替えなかったし。仲良い連中とそのまま同じクラスで上がれて、楽しいっちゃ楽しいかな」
 ”お前は?”、というふうに肩越しに視線を投げる英一。ヤブヘビだったと、苦虫を噛み潰す。
「……俺は、つまんねぇ」
「仁美が居ないからか?」
 からかうように英一が言う。
「俺があいつ好きだったのなんて……いつだか忘れたけど昔だろ。今更持ち出すな、そんな話」
「二年前。昔というほど昔でもないよな」
 歯を出して笑う英一。無論、自分の弱味を誰かに見せるのなんて大嫌いな俺が、こいつにそんなことをすすんでカミングアウトするはずもない。
 ただ単に察せられて、ほとんど無理やり自供させられたようなものだ。
「うるせぇ。とにかく、もうあんなブスどうでもいいんだよ。ただの幼馴染、それだけ」
「……じゃあ、なにがつまらないんだ?」
「深い意味はねぇよ。ただ……上っ面の付き合いだ、高校の奴らとはな。上手く言えないけど、そんな感じ」
「上っ面ねぇ……俺たちとは、上っ面じゃないの?」
「お前らは、小さい頃から一緒だろ。今更取り繕うものなんて……――」
 ない、のだろうか。……果たして、本当に?俺はなぜか断言できなかった。
 俯く俺に対して英一は軽く肩をすくめた。
「ま、ぶっちゃけお前のことなんかどうでもいいんだけどな」
「あ!?」
 俺の上げた声に目の前の小さな女の子が浮き輪ごと振り返った。俺はぎこちなく笑って誤魔化す。
 ……ここまで訊いておいて、なんたる暴言か。
「喜好、学校じゃどうなんだ?」
 どうやらこっちが本題のようだった。つくづく、である。
「そんなの俺じゃなくて喜好に訊けよ」
 俺は即答した。後ろめたさなんてないと、自分に言い聞かせる。
「喜好ははぐらかすばっかりでなんにも教えてくれないんだよ」
「なら、喜好が言いたくないってことだろ。それに、俺だって高校入ってから喜好とは同じクラスになったことねぇんだ。学校じゃほとんど会わねぇし、知らねぇよ」
 一気に捲くし立てる俺に、英一の目が鋭くなった。
「浩道、慌てるとすぐ早口になるよな」
「そ、そんなこと、ねぇ」
 しばらく黙って、一回潜水したかと思えば、溜息とともに英一が言った。
「……浩道の言うことにも一理ある、な。喜好が言いたくないことをお前の口から言わせるのは、確かに道義に反する」
 英一の言ったことで自分を納得させようとしている自身に気付いて、俺は内心舌打ちした。
「あのデブ、迷子になってなきゃいいけどな」
「喜好よりお前の方がデブだろ」
 話題を逸らすために適当に放った言葉に乗っかってくれるのは、英一なりの気遣いなのかもしれない。
 そういう意味で、英一は俺たちの中で一番の大人だった。

  英一は俺から訊きたい事だけ訊くと、早々に五十メートルプールに行ってしまった。
 いつもそうしているように、俺は浮いたり沈んだりしてただ流される。
 一人で居る時間は嫌いじゃない。他の奴らより少しだけ、一人で居る時間の遣い方が上手いという自負もある。
例えば……週末の行楽地は当然のようにこうして賑わっているが、一度水面に顔を沈めると何も聴こえなくなる。
 水を怖がって泣く子どもの叫喚も、それを宥める母親の声も、必要以上に騒ぎ立てる学生の群れがもたらす騒音も、何も……
――痛いほどの静謐さだ。目を閉じれば、時間さえ止まっているように感じられる。
 そしてもう一度水面に顔を出すと周りに音が溢れて、でも俺を置いてけぼりにして世界の時間が少しだけ進んでいる。
さっきまで耳についた音たちとは、また違う音が耳を通る。
 ウラシマ効果、といえば大袈裟かも知れないが。ほんの僅かだけど、俺と周りの時間の流れにギャップが生じて……不思議な寂寥感を覚える。
俺は、昔からそうやって少し穿った角度から水遊びを楽しんでいた。
 そうやっていると本当に時間の流れが体感できなくなってくる。
どれくらいそうしていたか、スピーカーから流れる係員の水質チェックの報せを受けて、俺はプールから上がった。

 「あ、ひぃちゃん。今日も一人でぷかぷかしてたんだね」
 荷物置き場に戻ると、俺以外みんな揃っていた。勝手知ったるか、喜好は俺を認めるとにこやかにそう言った。
「ふん、ぷかぷかじゃない。瞑想といえ」
 ”厨二か”、と仁美が俺の頭を小突いた。
「いい時間だし、メシにするか?」
 英一がバックから大きな箱を取り出した。このプールは飲食物の持ち込みが許されているので―当然、ゴミの管理には厳しいが―、四人でここに来るときは大概英一が四人分の弁当を持ってきてくれるのだ。
 それに慣れて、俺たちは食べ物どころかそれを買えるような余分な金さえ用意しないようになっている。
「いつも悪いわねー」
「わー美味しそうだね!」
「サンドイッチか。米が良かったな」
 各々ばらばらなことを言いながら、英一の準備を手伝う。
 今回は珍しく、仁美からも出品があるとのことだった。
「いつも英ちゃんちにばっかお世話になって悪いからって、お母さんが」
 でん、と大きな魔法瓶を取り出す。……中身は油揚げとネギの味噌汁だ。
「尚更、米だったな」
 俺が言うと、仁美は眉を寄せた。
「なにも持ってきてないくせに、文句ばっか言ってんじゃないわよ。魔法瓶に詰めて豚汁にするわよ」
 英一が真顔のまま親指を立て、喜好がくすくすと笑った。
「仁美、それ面白い」
「ひぃちゃんの豚汁、美味しそうだねー!」
 ぐむむ、と肩を震わせるが、仁美には口で敵わないことは今までの経験から明らかである。
「……俺は、企画担当なんだよ」
 とだけ言っておくに留めた。
 同じく手ぶらで来たにも拘らず、喜好は何一つ引け目を見せず誰よりも先にサンドイッチに手をつけていた。
「やっぱり英ちゃんのお母さんの料理は美味しいね〜」
「だろー?喜好はかわいい奴だな!とりあえず、爪の垢でも浩道にわけてやってくれ」
 よしよしと頭を撫でる英一に、俺は呆れて肩をすかす。
「喜好、もう17になったっけか?」
 俺が訊くと喜好はサンドイッチを慌てて飲み込んで”うん”と大きく頷いた。
「ひぃちゃん忘れちゃったの?僕はみんなの中で一番年上なんだよ」
 こいつのいう年上とは、同い年の中でも四月生まれの自分が一番年長である、ということを意味している。
 17にもなって……という意味を込めての嫌味だったのだが、やはり通じるはずもなく俺はもう一度大きく息を吐く。
「いいじゃない、ヒネて大きくなるより。どこかの誰かさんだって、昔はもうちょっと可愛げがあったのにね?」
 俺の言いたいことを察したのか、仁美が皮肉っぽく言った。
「いつまでも子どもでいられるかよ」
 俺が言うと、英一が小さく吹き出した。
「あんだよ?」
「いや、浩道は自分がオトナのつもりなのかって思って」
 ……そりゃ、英一に較べれば俺はまだ子どもかもしれないが……
「オトナ、ねぇ。……あんたらは、何をもってオトナっていえるのかとか、考えたことある?」
 英一の言葉を受けて、仁美がタマゴサンドをかじりながら言った。
「そんなの、考えたこともねぇな……人それぞれなんじゃねぇの」
 俺が言うと、仁美は半眼で応えた。
「そのそれぞれを訊いてんのよ。あんたはどういう人がオトナだと思う?」
「……よくわかんねぇけど……毛が生えたら?」
 俺の腹に仁美の肘がめり込んだ。
「英ちゃんはどう思う?」
「思いやりがある人が大人なんじゃないのかな。慮れる、っていうか、そういうの」
 間髪入れずに答える英一。ふん、真面目ちゃんめ。
「そっか……」
 仁美が考え込むようにタマゴサンドを味噌汁で流し込んだ。
「なんだよ、仁美のくせに真面目な話して、全然らしくねぇぞ」
「……あたし、最近よく考えるの。学校が変わって、あんたたちと会う回数も減って……
こうしてたまに会うと、その度にどこかみんな変わってて。昔には戻れないんだなって。これがオトナになることなのかなって」
 仁美の目が、少しだけ寂しそうに視線を流した。
 俺は、そんな風に考えたことなかった。大体、いつも自分のことで手一杯なのだ。誰かがどう変わってるか……気に掛けたこともなかった。
「でもさ」
 さっきまで黙って弁当に食らいついていた喜好が、唐突に声を上げた。
「これからもずっと、仁美ちゃんは仁美ちゃんだし、英ちゃんは英ちゃんで、ひぃちゃんは……ひぃちゃんだよね?」
「……は?」
 まるで確認するかのように、俺を見上げてくる喜好。なにをまた訳のわからないことを。
俺と同じくぽかーんとした仁美と英一だったが、二人は目を合わせると急に笑い出した。
「あんた、急に悟りを開くわよね、ほんと」
「確かに。ま、喜好のいいところだよな」
 笑い出した二人を見て、喜好は小首を傾げた。今回ばかりは悔しいが俺も喜好と同じ心境である。……訳、わからん。

  雲行きが怪しくなってきたこともあり夕方前には切り上げ、いつもそうしているようにマンションのエントランスで解散となった。
 挨拶もそこそこに家に戻ると、洗濯物を纏めて洗濯機に放り込み、自室でどさりと横になった。
 俺の布団は引きっぱなしで、喜好が使った分だけ片付けてある。
 部屋にはまだ、あいつの匂いが残っていた。
「……調子狂う」
 一人ごちる。気晴らしにゲームでもとテレビを付けるが、長続きもしない。
 ――……英一は感付いているようだった。
 気が重たい。それもこれも、全部喜好のせいだ。
 歯噛みしながら、枕を投げ飛ばす。
 ……明日から学校か……
 二つ折りのケータイでカレンダーを確認して、閉じる。
 学校なんて、欺瞞だらけだ。……辟易する……
「行きたく、ねぇなぁ……」
 駄々を漏らしてみても、それはその気持ちの再確認を伴うだけで。
 口にしなければ良かったとすぐに後悔した。

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