風呂を済ませ、部屋に戻ると喜好はもう寝息を立てていた。
 ……電気もつけっぱなしで、相変わらず夜が早いことだ。
 喜好が隣に寝ていると一人で寝ているときより心持ち室温が上がる。空調の設定温度を僅かに下げるのを忘れない。
 喜好はいつも団子虫の様に左側を向いて丸まって眠る。そしてそこから死んだようにぴくりとも寝返りを打たないのだ。
「……寝顔まで間抜け面かよ」
 寝相と同じで寝顔も昔と変わっていないことに気付いて、俺は一人笑いを洩らす。
 従順で無防備で幼くて……いつまでこいつはこのままなのだろう。
 俺は、昔とは随分変わってしまった。そんな俺にもこいつは変わらずに接してくる。
 ……それも、俺がこいつに抱く苛立ちの理由の一つなのだろうか。
 寝つきが良すぎて、一度寝てしまってはよほどのことがないと起きないのもこいつの特徴である。
 俺は喜好の頬を引っ張る。やっぱり、起きない……
 ……いっそ、嫌われた方が楽なのに……
 そう考えて、今日のあのこと以来喜好のことしか考えていないことに気付く。
 今度は自分の頬を両手で引っ張って、無理やり思考を切り替える。
「寝よ……」
 明かりを消して、自分の布団に潜り込む。
 隣に微かに他人の匂いを感じながら眠るのも、今となってはもう慣れたものだった。

  蝉の鳴き声が聴こえる。どうやら部屋の窓に張り付いているらしく、ビリビリと響く。
 うっすらと目を開けると、カーテンの切れ間からやんわりと日が差していた。
時計……は確認するのも面倒くさく、日の差し方が弱いことから早朝と判断した。
「……安眠を妨害しやがって〜……この、害虫が」
 ガツンと窓を蹴飛ばして追い払う。その騒音にも決して目を覚まそうとしない喜好。
 珍しく寝相が変わっていて、タオルケットを吹っ飛ばして仰向けに大の字で寝ていた。
 Tシャツが捲れて、毛一つ生えていない真っ白な腹が丸出しだった。
「…………くそ」
 こいつの方が俺のより綺麗かもしれない……思わずシャツを捲って自分の腹と較べてしまう。……俺なんか中学生くらいから腹の毛まで生えてきたって言うのに……
 他人から見たら井の中の蛙対決というか、五十歩百歩というか。それでも悔しいものは悔しい。少し敗北した気持ちになって、悔し紛れにぱしりと喜好の腹を叩いた。
「…んむ?」
「うおっ」
 まさか目を覚ますとは思ってなかったので、少し驚いてしまう。
「…ひぃちゃん…なぁに?」
 俺こそ安眠を妨害する邪魔者になってしまって、若干罪の意識を感じないでもない。
「で、出かけるぞ」
 少し焦った俺は突拍子もなくそんなことを口にした。
 あ、しまった。時間……と、そこで初めて時計を気にするも、意外にも時間は八時を回っていた。

  このマンションには幼馴染と言える存在があと二人いる。
 ただ、俺と喜好が同じ高校に通っているのに対して、この二人はそれぞれ別の私立高校に通っている。
 中学校までは皆揃って一緒だったのだが、別々の学校になってしまってはあまり時間が合わず、遊んだり出来るのはこうした週末だけになってしまった。
 だからといって、俺には特に感慨に耽る要素もない。久しく押していない幼馴染の一人、仁美(ひとみ)の家の呼び鈴を押す。
「仁美居るかー?」
 インターホン越しに言ったのだが、すぐにドアが開けられる。仁美本人だ。
「お、浩道じゃない。どうしたの?朝早く」
 寝巻き姿で躊躇なく異性の俺の前に出てこられるのは、俺を異性と意識する前からの付き合いであるからだろう。
 ウェーブの掛かった髪は若干寝癖が見られたが、それでも仁美は目を引く美人である。
 ……決して本人の前では言いたくないが。
 大きな目を瞬かせながら、これまた大きく開けた口で左手に持ったトーストをかじった。
「遊びに誘いに来てやったぞ」
 腕を組みながら尊大に言い放ってやると、仁美は馬鹿にしたような目つきになった。
「なーに偉そうに。……ま、暇だから付き合ってあげてもいいかな」
 もう一口トーストをかじって仁美が言った。その目は、”で?”と訴える。
 俺は背中に背負った水泳バッグを仁美の前に突き出した。
「市民プール」
「プール?嫌よ、二人なんて。もしカップルに間違われたらあたし……自殺するしかないじゃない」
 失礼な物言いに、俺は鼻を鳴らした。
「喜好と、英一(えいいち)も誘ってある」
「英ちゃんも来るの?四人揃ってなんて久しぶりねー。
 ……それは別にして、あたしが最後に誘われるなんて納得いかないんだけど」
 ふてくされたように言う仁美。相変わらず面倒くさい女だ。
「喜好は例のごとく俺んとこに泊まってたからな。今、帰らせて準備させてる。
 で、お前らに誘いのメール送ったんだけどな。マメな英一からしか返事がなかったんだよ」
 俺が言うと、仁美は舌を出した。
「どうせマメじゃないわよ、あたしは。ケータイって縛られてる気がして嫌いよ」
 仁美の持論だった。奔放な仁美らしいが、連絡を返さないことの言い訳にしかつかわない。
「準備して一時間後にエントランス集合な」
「遅れたらごめんねー」
「そうならないように、お前のために余分に見積もって準備時間取ってんだよ!」
 残ったトーストを全部口に詰め込むと、もう一度舌を出してドアを閉める仁美。
 高校生になってもこうやってあいつと付き合いが出来るのは、一重にあいつのこうした女っぽさの欠如のお陰だろう。
 英一にもう一度時間の確認メールを送ってから、集合時間まで自宅に待機していることにした。

  エントランスには喜好と英一がすでに来ていて、ぽつぽつと話をしていた。
 そういえば喜好に昨日のこと、口封じするのを忘れていたが……いくら間抜けなあいつといえど、あんなことを誰かに話したりしないだろう。
 俺を認めると、英一が手を挙げた。
 仁美ほど目を引くわけではないが、英一もそれなりに整った顔立ちをしている。
 何より、俺たちデブ組と違って爽やかだ。片手を上げるその所作も様になっている。
「久しぶりだね、浩道。相変わらず喜好に当たり強いみたいじゃないか」
 英一が若干非難がましい目を向けてくる。俺は喜好をじろっと睨んだ。
「え、英ちゃんー。僕、そんなつもりで言ったんじゃないよ〜」
「喜好は浩道に甘いんだよ。……いや、誰にでもそうかも知れないけど。
 とにかく、こいつはそういうので増長するタチなんだから甘やかしちゃダメ!」
 ”こいつ”のところでびっと親指で俺を指す英一。”え〜”と困ったように笑う喜好。
 ……鋭い指摘であるだけに俺は歯噛みする。
「ひ、久しぶりなのに随分な言い草だな、おい」
「そうだな、久しぶりだからこの程度で勘弁しておいてやる」
「まぁ、まぁ。僕のためにそんな言い争わないでー」
 喜好が制してくる。無自覚で”僕のため”とか言ってるのが腹立つ。
 そこまで喜好を思ってるなら、英一こそ喜好と同じ学校に進めばよかったんだ。それなら……
「お待たせー!」
 仁美が絶妙なタイミングでエントランスにやってくる。
 時間を見るとギリギリだったが、仁美にしては早い方だ。
「仁美ちゃんも久しぶりだねぇ」
 喜好の間の抜けた挨拶に、仁美は頬を引っ張って応えた。
「おうおう、相変わらず柔らかいわね、喜好」
「仁美、あんま引っ張るなよ。伸びて戻らなくなっちゃったらどうするんだよ」
 よくわからないことを言う英一に対して、仁美は半眼を向けた。
「ふん、相変わらず過保護だこと。英ちゃんも久しぶり」
 四人揃うとグダグダとして物事が進まないことがままある。
 俺は溜息を吐くと一人エントランスを出た。こうして誰かが先導しなければ移動もままならないのだ。
 そしてその”誰か”の役割はいつの間にか自然に俺となっていた。

  蝉の鳴き声は嫌いだ。奴らの鳴き声は加速度的に体感温度を上げる。
もしかしたらこの多重奏の中には今朝ふっ飛ばした蝉も混じっているのかも知れない。仕返しと言わんばかりに盛大だ。
 道路の放射熱は実体を持って足に絡みつくようで、自然と足取りも重くなる。
 七月にはまだ入ったばかりだというのに、これは異常気象なのでは……とも思うが、毎年そんなことを思っているような気もする。
 とっさに思いついた案にしてはプールの清涼感、悪くないと思ったのだが。移動が思慮外だった……
 すでに着衣水泳を行ったのではないかというくらい俺の衣服は濡れていて、鬱陶しく顔を伝う汗を手で拭う。
 ふと、視界に白いものが飛び込む。
「はい、ひぃちゃん」
 喜好が、タオルを差し出してくれていた。……俺に負けず劣らず汗を滴らせているくせに。
「……おう」
 短く応えて受け取ると、頭頂に鈍い衝撃が襲い掛かる。
「ぐお!?」
「気遣いにはお礼で応えるのが必定、だろ?」
 バックで縦の遠心力をフルに活かした一撃をくれたのは、英一だった。
「ちっ……さんきゅ、喜好」
「うんっ」
 この位で大袈裟に喜ぶから、嫌なんだ。ただ、横目で見る英一に気取られないよう顔には出さないが。
「なんでそんな喜好に素っ気なくするのよ。前はそんなことなかったよ?」
 こそっと隣に寄って来る仁美に、俺は面倒くさいという風に手を振った。
「前と変えてるつもりなんか、ねぇって」
 少し、自分に言い聞かせるような口調になってしまった。……周りから見てもわかるほど、俺はそうなのだろうか……
 当の喜好は、目を向けると首を傾げながら笑うだけだった。
 思考と、纏わりつく放射熱を振り払うように俺は足を速める。
「……これ以上ない図星の反応じゃない。わかりやす」
 仁美の独白にも、聞こえないふりをした。

  やっとのことで辿り着いた市民プール。
小銭を払うだけで広々としたところで水浴びできるんだ、やっぱり俺の案は間違っちゃいなかった。
 仁美と別れてロッカーに入る。
「俺、プールの更衣室苦手なんだよね。下湿ってるし、何よりニオイが……」
 英一がぼそっと洩らした言葉に俺は少なからず同意した。
 あまりネガティブな発言をしない英一が洩らしたということは、本当に苦手なようだ。
「確かにな」
 喜好はロッカーにバックをぶち込んで、いそいそともう上着を脱ぎ始めていた。
「き、喜好、早いな……」
 英一が言うと、頭を掻く喜好。
「早く出たいんだよね?更衣室。
 急いだ方がいいと思って。ほら、僕トロいし〜」
 喜好なりに気を利かせようとしたらしい。
 急げばそれだけポカする傾向にあるというのに、まだそれが自覚できていないようだ。
 案の定、自分の脱いだトランクスに足を絡ませて倒れそうになる喜好。
「わっ」
 予想していたコースに倒れこもうとしたため、腕を掴む。
「あ、ありがと。ひぃちゃん」
 ……喜好に触れた瞬間、昨日の出来事が脳裏を掠めて俺はすぐに手を離した。喜好の腰に巻いたタオルの隙間から陰毛が見えて、俺は舌打ちする。
 すぐにするどい口笛がなる……英一だ。
「芯の所は変わってないみたいだな」

「どーゆー意味だ」
 ”別に”、とそっぽを向く英一。……褒め言葉、というよりは揶揄に近かった。喜好はただ首を傾げるだけだった。

  俺たちが御用達の市民プールは、結構大きなつくりである。
 一番の特徴は『流れるプール』という、川みたいに水の流れがある大きなプールが設置されていることだ。
 これが冬場にはスケートリンクになったりもして、結構評判なのだ。俺はもっぱら夏場にしか使わないが。
 私営プールに劣らない広さと設備のためか、利用客はいつもごった返している。まあ、例年通りなので今更気にはならないが。
 その人込みを分けて、一番最初に着替え始めたはずなのになぜか最後に着替え終わった喜好が、
ぺたぺたと黄緑のバミューダのゴムを持ち上げながら後ろにくっついてくる。
 俺たちを待たせるようなことはしなかったが……多分それを見越して先に着替え始めたのだろう。
「仁美と合流しないとなー。っつってもあいつ、着替えるの遅いからまだ更衣室か」
 明るいオレンジのバミューダを穿いた英一が言った。
 振り返り様にさり気なく英一の上半身を見ると、しっかりと腹筋が浮き出ていて俺は歯噛みした。
「……俺だって、この中には筋肉が……」
 ぐっと中指を腹にめり込ませてみる……が、確かな手応えはない。やはり喜好との対決なんて井の中の蛙争いだったのだ。
 喜好も英一と較べて落ち込んだりしていれば少しでも気分が上がるというものだが、ぽけーっと俺たちの後ろにくっついてくるだけだった。
「聞いてんの?浩道」
「ん、ああ!そーだよな。合流合流。俺、更衣室の出口で仁美待ってるから、お前ら先荷物置くところ探してろよ」
「そうか?じゃあ、行くか喜好」
「うん。ひぃちゃん、待ってるからね」
 人込みに紛れないように配慮して、英一が喜好に手を伸ばした。
 躊躇うことなくその手を握る喜好。……高校生にもなって、とも思うが、これくらいの配慮が必要なのは一週間こいつと過ごせば誰でもわかるだろう。
 ……もっとも、一週間こいつと付き合って、その先関係を続けていきたいと思えるかは別問題だが。
 とはいえ、流石に俺は手を繋いでやることまでは出来ない。ようは、喜好に対してアニキ肌の英一に任せるのが最善なのだ。
 少なくとも迷子と……それから溺死の可能性は英一に任せる限り排除される。
 チビでデブの喜好が幼く見えてまだ救いがあったというもの。傍から見る限り本当に兄弟のように見える。
 ……むしろ、俺が手を引いたら、本当の兄弟のようにしか見られない。絶対にご免だ。
 細長いオレンジと、横長の黄緑の後姿を見送りながら、あいつと二人っきりの幼馴染でなかったことに感謝した。

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