状況は悪化の一途を辿った。
何故なら痛みを背負い込むのは俺一人・・・そう、思っていたから。
平然と日常を生きているあいつに、憎しみは増すばかり。
でも、心の何処かでは解っていた。
どちらかが一方的に悪いことなんて、在り得ない。
なら、痛みを背負い込むのだって、一方だけなんてことは・・・在り得ない。
それでも俺はあいつに優しく出来なかった。
辛く当たる事しか出来なかった。
もうそうする事でしか、感情を表現する事は出来なくなっていた。
自分を正当化しないと、全てが壊れてしまいそうで。
何時もの様に、あいつは俺の家に十時に着くという、自分から申し出た約束に遅刻した。
あいつからの連絡を待っても、当然来ない。遅れる、という、メールの一通さえ。
これが遅刻をなんとも思っていない、慣れからくるものだと俺は考え、それに俺は例の如く苛立ち始めた。
自分から連絡をとれば、勿論余計に苛つく。
だから、あいつの連絡を今にも沸騰しそうな精神を抑え付けながら待つ。
三十分、四十五分、一時間・・・
待ち合わせ時間を一時間と十分過ぎた辺りで、俺の我慢は限界に達した。
電話を入れる。
最も懼れていた事が、簡単に現実になる事が常に成ってきていた。
不在。待たされた俺から連絡を入れたのに・・・
それによって、不満や疑念が、連絡を待っていた時の何十倍にも膨れ上がったのは、言うまでも無い。
それでもその不満をぶちまける事すら出来ないのだ、俺は。
俺が、携帯電話というツールをここ数ヶ月で異様に嫌いになった原因は、これ。
故意にせよ、違うにせよ、一方的に繋がりを求める相手を断ち切れる。無視出来る。
ミシミシと音を立てる俺の電話。
もう一方の手で今にも電話を握り潰そうとする自身の握力をなんとか抑え付け、リダイヤルを図る。
が、それは阻まれた。
呼び鈴が鳴ったのだ。
俺は小走りでインターホンを取る。
「ごめん、遅くなっ・・・――――」
「上がれ」
言い終わるのを待たずに唯一言だけ、俺は吐き捨てた。
解っていた、どんな理由があろうとも、自分が納得出来ないだろう事は。
それでも俺は理由を問い質した。
「お母さんが、今日は家の手伝いをしろっていうから・・・」
俺が待たされればこんなに苛つく事、これだけ繰り返せば解っているだろ?
何?それ?納得しろって?
仮にそれがもし本当に理由だとする。
だとしたら連絡一つ入れないのは何故?
「出来なかった・・・」
違う、お前は「出来ない」という言葉の意味を知らない。
電話が止っている訳でも、ましてや手が動かなくなった訳でもない。
遅れを相手に知らせること位、出来ない訳が無いのだ。
そう、それは出来ない、ではなく、しないだけ・・・
「そうだろ?違うのかよ!?違うんなら何か言ってみろよ!」
「・・・・・・・・・」
お得意の沈黙。
これがどれだけ相手に依存した行為だか、こいつは果たして理解しているのだろうか。
落ち度があったのはこいつなのに。開口するのはいつも俺からでなければならない。
どうかしている。俺の納得のいく位、そんな立派な言い訳して欲しい。
どうか、俺を苛立たせないで欲しい。
しかし、やはりこいつは黙っているだけ。
いきり立って、俺は壁に頭を打ち付ける。
そんな俺に一瞥もくれる事無く、あいつは呟いた。
「・・・・・・もう、やだ」
俺は光の速度で奴に振り返る。
思考も光の様に逡巡する。ありとあらゆるモノが錯誤し、言語化される事を厭う。
取りとめも無かったが、それらの思考を表現するのに一番相応しい言葉はやはり唯一つ、怒り。
何がイヤだというのだろう?待たされたのは俺なのに?
そもそも今が弱音を吐かれる場面である筈が無いだろ?
もう、ってなんだよ?今までお前が何を耐え忍んできたって言うんだよ?
あらゆる思考が喉元から出ようとしては、どれもが我先にと逸るので、詰まり、結局出ることも適わない。
そしてそれすらも、俺には憤りの対象だ。
そしてその詰まった疑問のどれが俺の口から出ようとも、俺はきっとあいつの回答に満足出来ない。
解りきった事だった。もうイヤなのは・・・・・・俺だ!
・・・何かが切れた。
思考を逡巡することで固まっていた俺の体は、正にそんな表現が的確とでもいう様に、動いた。
あいつの許に。
「・・・うっ・・・あ!!」
あいつの搾り出すような声や、自身の握力は確かに感じるのに、それでも俺は第三者からその光景を見ているような心地だった。
俺が、あいつの首を絞める、その光景を。
「・・・・・・・・ッ!!」
そして俺を現実に引き戻したのは、痛覚。
首を絞める俺の両手を、あいつの両手の爪が掻き毟り、血が滲んでいる。
はっとなり、握力が弱まる。
その瞬間、視界が回ると同時に、肺の空気が全て抜けるような感覚に陥る。
覆い被さる様な形で首を絞めていた俺は、握力が緩んだ隙に鳩から思い切りあいつに蹴り飛ばされたようだ。
「げほっ!!・・・げほ!」
あいつと俺は同時に咳き込む。
俺は頭も打ったらしく、後頭部も痛む。
涙で滲む視界の先、あいつは俺のことを睨んでいた。
恐怖で震えてはいるが、確かに強い怒りをもっている、その視線。
それは紛れも無く俺に向けられていた。
「・・・っざけんなよ・・・!もう散々なんだよ!」
良く、理解出来なかった。
散々?こいつは何を言っているのだろう。
それほど俺が呆気に取られるのは、初めてだったから。
こいつが、俺にこんなにも強く反発したのは。
「何が、散々なワケ・・・?」
少し咽ながら、俺は訊き返した。
かなり、胸が痛む。・・・物理的に。
「いつもいつもお前に責め立てられて、俺は言いたいことも我慢して!!もう我慢出来ないってんだよ!」
初めての強い反発だったが、こいつの言っている事は相変わらず訳も解らない位に的を外れている。
言いたい事を我慢しろなんて、俺は強要した事は一度も無い。
それなのに、まるで「我慢してきてやった」かの様な口調で吐き捨てるこいつ。
「は?じゃあ言えばいいだろうが」
「どうせお前は言ったって聞かないだろうが!」
したこともない癖に、どうせ、という言葉を遣うこいつの卑怯な所が、俺はどうしようもなく嫌いだ。
蹴り飛ばされた事や、あいつ自身の熱も相俟って、俺はだんだん過熱していく。
「したこともないことを、どうせで締め括るな!」
「煩い!!」
・・・反論にすら成って無い。
それが判らないのか!?
「何だそれ!理屈で応えろよ、卑怯者!反論出来なきゃ吠えるだけか!?」
「ほら見ろ、俺はお前みたいに口が回らないんだ!だから何も言えない!お前もそんなことも判んないのか!」
聞けば聞くほど耳を塞ぎたくなるような暴論。
自分に反論する能力が無い事さえ、俺の所為か!?
「じゃあ俺はお前が約束破ったり、嘘吐いたりしても、全部「ごめん」ってお前が謝罪するだけで、
許せば良かったって言うのかよ!」
「そうじゃない・・・!けど、解らない・・・!!でも、俺だってもう嫌なんだよ!
お前はいつも自分が精一杯だって顔してるけど、俺だって・・・!!」
「・・・!!・・・お前だって、なんだよ」
何となく、先は解るような気がした。
何故なら、俺はきっと、こいつにこういうことを言われるのを、心の何処かで懼れていたから。
「俺、必死でお前の我が侭に付き合ってきたよ。間違った事をお前が言っても、
それが正しい事なんだって自分に言い聞かせて。
約束を軽率に破ったり、謝る以外何もしない俺の所為で、お前がおかしくなってることは解ってたから、だから我慢した。
最近は熱がある日も、親に家に居ろって殴られた日も、お前に会いに来たよ。
でも、もう解らない・・・悪くなるばかりのお前に、俺が何をしたらいいのか。
このままじゃ、俺も、おかしくなる」
俺は、唯黙ってそれを聞いていた。
そう、解っていた。
あいつも理不尽なら、俺も理不尽だと言うことは。
自分の非なんて、探せば幾らでも出てくる。
それでも、自分でそれを省みる事が、俺にはどうしても出来なかった。
でも・・・
「なら・・・俺に不満があるなら・・・嘘を吐いてまで・・・従順を装う必要なんて無かったのに・・・
こんな、裏切られた形で今更言われたら・・・俺、もう・・・何を信じたらいいか・・・!!
卑怯だ・・・ずるいよ、お前・・・」
涙が、止らない。
自分の感情が何を感じているかも、解らない。
なんだかんだ言って、きっと俺はこいつの事を信じていた。
だから、裏切られた今、涙が出る・・・きっとそう。
「・・・俺・・・そんなつもりじゃ・・・お前を騙すつもりじゃなかった!」
それも、俺は解っている。
つもりは、確かに無かったんだと思う。そしてそれがあいつなりの俺への思い遣りだったと、皮肉ながらも今なら解る。
心の隅では解っていても、自分の為にと、それを汲んでやる事が出来なかったのだ。
俺は、間違いだらけで。
それを・・・止めて貰いたかった、お前に。もっと早く。だからいっぱい、いっぱい無理を言った。
甘えたかった、本当は。
「俺・・・駄目な奴・・・だな・・・本当・・・」
溜息と一緒に、そんな言葉が出る。
生気も一緒に抜けていく、ようだ。
「違う!!おかしくしたのは俺なんだ!でも、俺がそんなお前に堪えられなくなって・・・」
違う、きっと俺はこういう奴なんだ、おかしいとか、おかしくないとかじゃなく。
気の弱いこいつを、若しかしたらいいように使っていただけなのかも知れない。
そうか・・・相手を玩具の様にしていたのは、俺の方・・・か。
涙が止らない。
もう、全てが厭だった。
「泣かないで・・・俺、お前の泣いてる顔、見るの・・・辛いから、本当に」
少し前まで、どうせ嘘だろ、としか思ってなかった。
相手の表情をよく見ていなかったのも、俺の方だったのかも・・・知れない。
どうしてこうなった・・・?
今なら解る。
俺はこいつが好きだった。こいつが、俺を好きに思う気持ち以上に。一緒に居たかった。
自尊心が強い俺は、それを認めたくなかったんだ。
だから、歪んだ。
そして、それに気付け、認められた今こそ・・・決着を付けなければ、ならない。
この、歪んだ関係に。
「今まで・・・ありがとう」
「え?」
「俺・・・お前が大好きだった。だから、その所為で、お前には迷惑掛けまくった、本当に済まない」
「・・・なに、言ってるの」
「別れよう」
こいつと付き合ってから、恐らく初めて。
100%相手の為を思って、言えた言葉だと思う。
断る事を期待したり、相手に罪の意識を感じさせようとしたりも、していなかった。
それが、純粋に相手の為だと思った。
なのに。
「・・・・・・ヤダ・・・・・・」
「え」
「・・・ヤダ、ヤダあ・・・・・・!」
子どもの様に泣きじゃくり始める、こいつ。
何が、イヤなのか。
俺だってイヤだ。寧ろ、俺の方が、イヤだと思っている筈だ。
今、それを一生懸命に飲み込んで、こんな事を言っているんだから。
「・・・お前は、俺をそんなに大した存在だとは思ってないだろ・・・お前の中の俺は、こんなにも小さい。
それを認めたくなくて、俺はこういう風になった。でも、それじゃあいけない、駄目なんだよ」
言う事で自分の考えに確信を付けていく様な、そんな感覚。
否、無理にでも納得しようと、しているのかも知れない・・・
「違う!!!」
そんな俺の思考を、あいつの大きな声が遮った。
「お前は俺にとって小さくなんか無いよ!それを感じさせてあげられなかったのは俺だ!俺なのに・・・!!
自分から何も出来ない自分自身や、それによって出来た現状なのに、一方的に罵られる事に勝手に苛ついて・・・俺・・・
別れたいなんて言ったり、逆上したり・・・」
言い終わると同時に蹲る。
しかし次の瞬間、いきなり俺に圧し掛かってくる。
「な、にすんだよ・・・!!」
出来ればこいつの体温は、感じたくなかった。
決心が鈍ってしまいそうで。余りにも自分勝手な今を、続けてしまいそうで。
しかし俺の思いとは裏腹に、こいつは身体を俺に押し付けてくる。
「俺、お前とくっつくと凄い嬉しいし、幸せだ!そこに嘘は無い。どんなに、何時までくっついてたって、物足りない位だよ。
それに、言葉で信じて貰えないなら、触ってよ!」
そう言って俺の手を取り、自分の股間に押し当てる。
「俺、お前でしかこんなに大きくならない!お前だからだよ!でも、身体に触らせてもらえなくったっていい。それでも俺はお前の傍に居れる」
「・・・!!」
なんだって、言うんだ・・・
俺の決意を揺さぶって、何がしたいというんだ・・・
「なんで・・・そんなことする・・・」
「言えた身じゃ、無いかも知れない・・・だけど、お前が・・・好きだから」
別れるって言った覚悟は、甘いものじゃなかったつもりだ。
それなのに。
こいつの言葉がこんなにも胸に響く。
込み上げてくる。
俺はそれを留める事さえ、出来なかった。
「・・・俺・・・本当は、別れたく、ない・・・一緒に・・・居たい・・・」
「・・・・・・ごめん・・・・・・辛い事ばかり、味わわせて・・・ごめん・・・」
それからあいつは、いっぱい話をした。
本当は、あいつの家族は親父が不倫をしていて、大変だということ。
その所為で、俺の為にばかり時間を割けなかったということ。
それを言う事で、俺に負担を掛けるのがイヤだったということ。
・・・でも、時間にルーズなあいつは、本当に遅刻したことも何回もあるので、俺の為にそれを改めたいということ。
俺は、あいつのことについて、何も知らなかった。そして今の今まで、自分のことさえ。
俺も、いっぱい話した。今、やっと気付けたことも含めて。
本当は、お前が好きなのに、一緒に居る時間が削られていくのが何より苦痛だったということ。
素直にそう言えばいいのに、怒る事でしか気持ちを伝えられず、素直になれなかったということ。
これからはもっと素直に好意を伝えたいというということ。
そして、俺自身、間違いだらけな人間で、俺が間違っているとお前が気付いた時、俺を戒めて欲しいということ。
こんなに一緒に居たのに、こんなに話したのは初めての様な気がする。
思えば、相手にばかり、求め過ぎていたんだ。
俺が素直にならないのに、相手が心を開いてくれる訳も無い。
好意を伝えずに、好意が返ってくる訳も無い。
そして、あいつも同じ様に痛みを抱えていた。
相手の所為だけで、こんな歪みは生まれない。
俺は、それに気付けた。そして、あいつも。
二人の間に生まれたこの歪みは、二人でしか見えない。直してゆけない。
直すこと、それは簡単なことではない。
でも、それでも・・・大丈夫だ。
この歪んだ感情だって、あいつが好きな気持ちの上に出来たものなんだって、認められたから。
俺は、こいつが好きだと言えた。
こいつは、俺が好きだと言ってくれる。
だから、俺たちの、歪で、奇妙な、この関係は終わらせられる。
だって俺たちは、二人で、出口を探し始めたから。
明日は・・・きっと・・・きっと。